今、なぜ明治史を学ぶのか 『はじめての明治史』(山口輝臣)より
記事:筑摩書房
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歴史を細かく「なんとか史」と分けていく場合、まずは地域で割るのが普通です。東洋史とか西洋史、フランス史とか日本史といったものです。さらにそれを政治史や経済史などと区分することもあります。分野ないし領域の歴史で、文化史は覚えることが多いから苦手だとか、そんな話をしたことのある人もいるでしょう。これに対して、古代史、中世史、近世史……といった時代ごとの歴史もあります。これらはいろいろと組み合わせることができて、たとえば、○○先生の専門は日本近代政治史だ、と言ったりします。
明治史というのは、そうしたものとの関係で言えば、日本近代史という「地域+時代」による歴史の、さらにそのうちの明治という元号だった時期の歴史であると言って、大きな誤りはないでしょう。明治史と近代史とでは、対象とする時期の長さ、普通は明治の方が近代より短いと考えますが、そうした違いがあるほか、近代はいつからいつまでと考えるか諸説あるのに、明治の始まりと終わりは明確であるといった違いなどもあります。明治のはじまった年を西暦で言うと1868年、その最後の明治45年は1912年ですので、その間の45年ほどの歴史ということになります。
ただし明治史といっても、厳密に明治時代だけに限定し、その前後には一切触れないというのは、現実的ではありません。来年(2019年)の話を例にとると、途中の4月いっぱいは平成史で、5月1日からは○○史―何となるんでしょうか―と、四角四面に切り分けることに、あまり意味はなさそうですよね。それと同じことで、明治史でも、その前後は融通を利かせ、必要に応じてとりあげるのが一般的です。しかしそれでも、基本的に、明治史とは、明治という元号の時代の日本の歴史と言ってよいでしょう。
さて、そうした明治史を、どうしてわざわざこの連続講義で取り上げるのでしょう? どうして明治史なのか?
ひとつには、明治史が変化の時代であることです。
数字的に分かりやすい例で行くと、まずは「国土」。明治元年、すなわち1868年の日本国の面積は、推計で約38万平方キロメートル。それが明治末年、すなわち1912年になると約67万平方キロメートルで、75パーセントほど増えています。主な理由は、台湾・樺太・朝鮮という植民地の獲得です。明治より以前には植民地など保有していませんでした。大正以降に得た南洋諸島などは、面積も小さい上に、委任統治領といって、植民地とは法的な性格が異なります。戦争による占領地は「国土」ではありません。満洲国は別の国家です。そのため「国土」の増加はその大部分が明治に新たに起きたことになります。国の広さが変わるなど、いまではなかなか想像できません。明治以前の人もそうだったと思います。逆に言うと、そうした稀有な変化が、明治史には起きたことになります。
次に「人口」。それなりに信頼のおける最初の人口統計は明治5年、すなわち1872年のもので、約3300万人。明治末年のそれは約7000万人。「国土」の増加にともなう台湾(明治末年で約320万人)と朝鮮(同年で約1400万人)の住民に加え、それ以外の日本列島―よく「内地」と呼ばれました。同じ年で約5200万人。なお、「内地」の対語は「外地」です―における出生率の上昇と死亡率の低下による自然増もあって、全体で2倍以上に増えています。平成の場合は、30年ほどの期間で1.02倍とほぼ横ばい。明治がいかにダイナミックな時代であったかが分かるでしょう。このほか、GDPや進学率などさまざまな指標で、明治史における巨大な変化を見出すことができますが、時間の関係で先に進みます。数値化できない、あるいは数値化しづらい変化も、負けず劣らず重要だからです。
政治の中心は将軍から天皇に移りました。それから20年ほどかけて、内閣を軸に、憲法に則り、議会を開き、国民がそれに参加する仕組みへと移行していきます。そのあいだに、大名は消滅し、公家とともに華族となります。人口の数パーセントを占めていた武士は特権を失い、士族という名のもと、他の国民と区別がつかないものへとなっていきます。
こうした国内の変化だけでもかなりのものですが、外との関係も劇的に変わります。幕末に西洋諸国と条約を結んで以降、日本は、東アジアの近隣諸国とも同様な関係を構築しようとし、周辺諸国との摩擦を生みます。やがて日清戦争、さらには日露戦争を戦い、台湾や朝鮮を植民地としていきます。
そしてこうした諸変化は、しばしば西洋化と呼ばれるように、西洋をモデルとしたものでした。それまでの時代と比べたとき、これ自体も見逃すことの出来ない変化です。
明治という変化の時代を考えることで、近代日本の原点を探ることができるのです。