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「新中国」の女学生を幻滅させたトランプ政権 『上海フリータクシー』

記事:白水社

『上海フリータクシー 野望と幻想を乗せて走る「新中国」の旅』(白水社)
author photo © Julie Langfitt / cover photo © Kuan Yang
『上海フリータクシー 野望と幻想を乗せて走る「新中国」の旅』(白水社) author photo © Julie Langfitt / cover photo © Kuan Yang

うつろいゆく「チャイニーズ・ドリーム」

 それから数週間後、わたしは夏期休暇を取ってアメリカへ帰国し、アシュリーを訪ねるためにシカゴで降りた。彼女はビジネススクールの初年度を終えたところで、投資銀行で研修をしていた。わたしたちは彼女のアパートの外で会った。シカゴ川から一ブロック離れ、ミシガン湖までは歩いていけるところだった。アシュリーはスピンクラスを終えたばかりで、ライムグリーンのランニングパンツにフラットシューズを履き、横目づかいのネコ──アシュリー独特の疑い深い性格にぴったりなイメージ──の漫画をあしらったTシャツを着ていた。

 ヨットがミシガン湖を間切って走り、わたしたちは緑陰樹の下、湖に沿ってそぞろ歩いた。アシュリーは投資銀行で働く三人の研修生の一人で、卒業後は職にありつけるだろうと楽観視していた。短期留学プログラムでパリの秋を過ごせれば、と楽しみにしていた。ビジネススクールを卒業したあと、アシュリーはいくらぐらい稼げるのかわたしは疑問に思ったが、なかなか訊きづらかった。一九九〇年代の中国では、給与額を尋ねるのはぶしつけなこととは見なされなかったが、社会規範というのは──ほかのさまざまなことがらと同様──常に移り変わるもので、最近あちこちで給与の質問をしたところ、あきれたまなざしで見つめられた。しかし今回ばかりは好奇心を抑えきれなかった。

 「年間一二万五〇〇〇ドル」とアシュリーは答えた。

 彼女の両親の年収を足した額よりも多い。

『上海フリータクシー 野望と幻想を乗せて走る「新中国」の旅』目次より
『上海フリータクシー 野望と幻想を乗せて走る「新中国」の旅』目次より

 わたしたちはレイクショア・ドライブを渡り、グラントパークで開催されていた夏の大フードフェスティバル、テイスト・オブ・シカゴの雑踏のなかへ入っていった。ソーセージを焼き、エビフライを揚げる煙があたりに満ちていた。汗まみれの群衆をかき分けていくとき、アシュリーは手をひらひらさせて、脂っこいアメリカ料理のにおいを鼻先から追いやった。多くの中国人が西欧に来る理由の一つが人混みから逃れるため、ということをわたしはついつい忘れてしまう。

 「母はわたしをここにいさせたくないんです」とアシュリーが言う。両親は娘の仕事の選択も渡米も承認しなかったという。

 「だけどたくさん稼げるよね」と言ってみた。

 「彼らにとってお金はそんなに重要じゃないんです。伝統的な中国人なんです」

 アシュリーの家庭は共産党と有力なコネを持っていた。おばの一人は、アメリカで言えば各省長官に匹敵する地位に就いていた。アメリカ人の親なら大半は、アシュリーのような職業的成功や金銭面での成功を喜ぶことだろう。彼女は齢二十八にして、他国ならば二、三世代かかることを一世代のうちに成し遂げようとしていたのだ。

 わたしたちはシカゴ川に沿ってぶらぶら歩き、途中で点心を食べ、彼女が住むミシガン湖の見渡せる一六階の転借アパートへ向かった。そこでの会話は、わたしたちのおしゃべりはすぐそうなる傾向があるのだけれども、ふたたび政治の話になった。アシュリーは二〇〇八年のアメリカ大統領選挙の結果を、北京大学に来ていた興奮気味のアメリカ人学生たちと見ていた。彼らは自分たちの国が黒人大統領を選び、人種には拘泥しなくなったらしいのを見て、驚いていた。それから八年後、アシュリーはここアメリカの自分の大学近くの中華レストランで、選挙の日の夜を過ごしていたが、テレビにはほとんど注意していなかった。というのも、ヒラリー・クリントンの勝利を当然のことと考えていたからだ。ペンシルヴェニアとオハイオで共和党の勝利が伝えられたあと、アシュリーは自分のアパートに帰り、トランプが大統領の地位に就くのをオンラインで見た。

 「うわぁ、こんなことが本当に起こるんだ」と思った。

『上海フリータクシー 野望と幻想を乗せて走る「新中国」の旅』主要登場人物より
『上海フリータクシー 野望と幻想を乗せて走る「新中国」の旅』主要登場人物より

 わたしたちの最後の会話から数カ月後、トランプ大統領は──証拠もなしに──オバマ政権がトランプタワーで彼を盗聴していたと非難し、FBI長官だったジェームズ・コミーからどうやら忠誠表明を引き出せなかったということで彼を解任した。彼はまた、アメリカを気候変動に関するパリ協定から離脱させる計画を発表した。一〇年前のアシュリーはアメリカについてきわめて理想的なイメージを抱いていたが、ワシントンDCで一年間働いていた二〇一四年にそれが変わり始めた。

 「醜悪な側面が見えてきたのです」と彼女は言った。アメリカ人の多くがここまでものを知らないのかと愕然とし、アメリカの民主主義の基本的前提に疑問を抱き始めた。つまり、教養を備えた市民が選挙で正しい選択をする、という前提だ。

 「人びとに権利を与える場合、愚かさに直面することも覚悟しておかなければなりません。だって、大半の人は無知ですから」。彼女の殺風景な転借アパートの布団に一緒に座っているとき、彼女はそう言った。「ともかくそれが真実です。彼らはいとも簡単に政治家から操作されるのです」

 「トランプと選挙民に着目したとき、あなたは民主主義について根本的に考え直したわけだ?」

 「そういうことです」と彼女。「もちろんわたしにとって難しいことでした。なぜって、わたしがここに来た最大の理由の一つがこの国の民主主義でしたから。でも過大評価していたんですね」

 「過大評価していた部分というのは?」

 「民衆は信頼できる、という点。それは嘘でした。みな生まれながらにして平等だとか、平等に扱うべきだという十八世紀の考え方は全部すてきで、とても思いやりを感じますが、現実からは乖離しています。明らかにみな生まれながらにして平等ではないし、物事に対して持つ意見もほとんどが社会的地位によって決まってしまう。みんな自分の運命を自分で決める力を持ってほしいとは思う、けれどもそれは常に正しいわけじゃない。しかしまた、みんなの運命を誰かが決めるというのも正しくない。というわけで、わたしたちはいつだってジレンマのなかにいるのです」

『上海フリータクシー 野望と幻想を乗せて走る「新中国」の旅』地図より
『上海フリータクシー 野望と幻想を乗せて走る「新中国」の旅』地図より

 トランプが大統領に選ばれたこと、そして彼が実現しようとしている政策は、アシュリーのアメリカ観を変えつつあり、彼女は民主主義についてさらに疑り深くなる。ここに住もうという計画を変えることになるのかな、とわたしはふと思った。

 「それはないと思う」とアシュリーは言った。

 そう言ったあと、彼女はしばし考え込んだ。

 「でもね、あるかもしれません。中国には戻らないけれど、アメリカではない別の場所へ行くかもしれません」

 「どこへ?」

 「たぶんヨーロッパかどこか。ここに引っ越してきたとき、ほぼこのまま永住するつもりでした」と、彼女は残念そうに言った。「後戻りはできません、ですがここでは満足できません」

 アメリカには、ほかの国から来た学生をはるかに上回る数の中国人学生がいた。何十年も前からアメリカは中国人学生を歓待していて、それは彼らからの授業料収入を期待していただけでなく、彼らが言論の自由、法の支配、民主主義に関するアメリカの価値観を吸収し、中国を変えるためにそれを持ち帰ってもらいたかったからでもある。その戦略の成果はまだ見えない。しかし、トランプが大統領執務室に入ってから、アメリカ的理想を海外へ売ることはますます難しくなってきた。アシュリーのような学生は、アメリカ留学で感銘を受けるのではなく、幻滅し始めていた。

 アシュリーが進むべき道は不確かだった。差し当たって祖国には見切りをつけていた。自由の見通しはここ二〇年以上で最低だった。それを痛感させるように、わたしたちがそんな会話を交わしていたさなか、天安門事件のリーダーの一人でアシュリーの大学時代の理想主義にその著作で火をつけた劉暁波が、中国北東部で拘留されたまま死にかけていた。わたしは数年前、労働教養所での体験について劉にインタビューをしたことがあるが、その彼が平和的な民主的改革を推進しようとして拘留されていたのだ。中国政府は劉暁波が治療のために海外へ出ることを許さず、わたしとアシュリーが会話をした数日後、劉は死んだ。ノルウェー・ノーベル委員会の委員長、ベリト・レイス=アンデルセンは、「中国政府は彼の早すぎる死に対し、重い責任を負っている」と言ったが、それは中国政府が中国の外でよりよい医療を受けることを拒んで彼の死を確実にした、ということを行儀よく表現しただけのことだ。

 アメリカで一年間学生生活を送ったあと、アシュリーは自分の祖国にも第二の祖国にも幻滅していた。そして想定外の事実を受け入れ始めていた。「ここへ移住したことですべてが解決するわけではありません」

【『上海フリータクシー──野望と幻想を乗せて走る「新中国」の旅』「第11章 心を失う」より】

書籍紹介動画「Frank Langfitt Discusses His Book, “The Shanghai Free Taxi”」(英語)

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著者講演動画「INSIDE THE REAL CHINA」(英語)

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