障害者について思考停止状態にある人に衝撃を与えたい 『無敵のハンディキャップ』より
記事:筑摩書房
記事:筑摩書房
1989年の終わり頃、私と慎太郎は新しいボランティアグループを作るために動き始めていた。まだ、頭の中の黒い塊は、はっきりとした形に定まってはいなかったが、やるしかなかった。
ボランティア業界に長く関わっている内に、ボランティアグループの問題点もだいぶ見えてくるようになった。自分たちの安息の場所にするために、閉鎖的になって健常者たちを遠ざけていること。障害者と健常者の交流という謳い文句を掲げていても、表面的な関わりだけで終わっていること。そんなボランティアグループの在り方を批判しているうちに、すっかり私はボランティア業界の嫌われ者となっていた。特に発表会に関しては批判が過ぎて、「そこまで言うなら自分でやってみろ」とまで言われてしまった。単純な反発心からボランティアグループ作りに向かった気持ちもあるが、見切り発車になるとわかっていながら踏み切ったのは、和室での慎太郎の一件があったからだ。あの日、宙をさまようような慎太郎の目を見たとき、放ってはおけないと思った。それには、一緒のグループで活動するのが一番よかった。
慎太郎は養護学校を卒業し、職業訓練校に通い始めていたので、そこで仲のいい障害者に声をかけ、私は、健常者でスタッフになってくれそうな、新垣と神山という二人の大学生に参加を呼びかけた。高校生の頃からボランティア活動を続けている新垣は、辛辣な批判精神の持ち主であったし、ボランティア業界に入ったばかりの神山は、まだこの世界に毒されていないのが良かった。
年が明けて、90年2月にグループの発足会を開いた。6人の障害者と12人の健常者が集まったが、広くメンバーを募ったため、純粋にボランティアをしたいという女子高校生も多く参加してきた。発足会では、とりあえずグループ名を決めようという話になった。そして、ある障害者が提案したのが、ドッグレッグスという名前だった。
「なまえのいみは、なんなのですか」と慎太郎が聞くと、その障害者は、「犬の前足が健常者で後ろ足が障害者。それで、一緒に走るという意味です」と答えた。しかし、私は後にドッグレッグスの本当の意味は、米国語スラングで障害者という意味であることを知った。名付け親がそれを知っていたのかどうかは、今となってはわからない。なぜなら、その障害者は発足会以降、顔をみせることがなかったからだ。
ドッグレッグスとしてスタートしたものの、新しい形の障害者の発表会というアイデアはまるで浮かんでこなかった。仕方なしに毎週日曜日の午後にボランティアセンターに集まっては勉強会を開いたり、遊園地や公園に遊びに行ったりしていた。一部のメンバーは楽しそうだったが、これでは他のボランティアグループと何も変わりがない。こんなことをやりたかったわけではないと、焦りと苛立ちは募るばかりだった。
*
きっかけは女の奪い合いから生まれた憎悪だった。だが、二人が争う理由は、もうそれだけではないように思えた。胸にドス黒く渦巻いているモヤモヤを、二人は相手にぶつけているのではないだろうか。暗闇で怯えていた慎太郎と、空っぽの財布を嘆いていた浪貝。健常者社会に対する二人の不安や怒りや悲しみは、どこにもぶつける場所がなかった。このプロレスは、その溜まりに溜まった感情の発露なのだ。だからこそ、技術的には拙ないプロレスであっても、私たちの目は二人の動きに惹きつけられたのだろう。
闘いが始まってから三十分が経った頃だろうか。慎太郎が浪貝の首を脇に抱え、そのまま後ろに倒れるようにして脳天を床に叩きつけた。プロレスの「DDT」という技である。今までで一番大きい鈍い音がしたかと思うと、浪貝が床に脳天をつけたまま動かなくなった。
危険と判断した神山がゴングを要求し、慎太郎の勝利となった。心配したメンバーが浪貝に駆け寄って顔を見ると、額から血が出ていた。一瞬、ひやっとしたが、よく見るとニキビが潰れていただけだった。
「いままで、なみがいさんに、なにか、されても、だまっていたのは、ぼくが、ほんきに、なったら、なみがいさんを、ころしてしまうかも、しれないと、おもっていたからです!」
慎太郎は得意そうな顔ではしゃいでいる。その姿を浪貝は、恨めしそうな顔をして見上げていた。
「世界障害者プロレス、初代チャンピオンの誕生だ!」
スタッフたちは大笑いしながら大騒ぎしている。雲の隙間から少しだけ陽が射すような感じがした。これだ、このプロレスを人に見せよう。障害者が体を人前にさらし、命懸けで闘う。それは、障害者について思考停止状態になっている健常者たちにとって、理解し難い衝撃を与えるはずだ。これなら、障害者プロレスなら、固定化された障害者やボランティアのイメージを揺り動かすことができるかもしれない。蠢いていた黒い塊が、形あるものに姿を変えようとしていた。