美しき「カトマンドゥ」 矢萩多聞とその娘「美しいってなんだろう?」より
記事:世界思想社
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ぼくが七歳のとき、父がひとりでインドとネパールに一ヶ月間旅をした。英語もろくろく話せないのに、いくつかの町をめぐって、人とスパイスと埃にまみれて帰ってきた。
帰国後、わが家はインド一色に染まった。朝はお香の甘いにおいで目が覚め、ビヤンビヤンしたふしぎな音楽が鳴り響く。スパイスと野菜を煮込んだ汁っぽいカレーが毎日のように食卓にあがる。「カレー」ではなく、「カリー」と呼ばれるその料理は、日に日に複雑な味となり、台所にはカルダモンやクローブ、八角の匂いが染みついた。父は得意になってつくっていたが、ぼくはそのにおいをかぐだけで気持ちわるくなり、当然、カリーもカレーも食べられなくなった。
父のバックパックには、大小のおみやげがつまっていて、そのなかに新聞紙につつまれた素焼きの灰皿があった。いくつかは道中でくだけ、古代のジグソーパズルのようだったが、奇跡的に無傷のものもあった。ほ乳類の腹のように丸っこく、赤土の肌がつややかで、素朴なうずまきの飾りが美しかった。
母はそれをみるなり、「これはわたしのものだわ」と自分の胸にひき寄せた。
まるで、子どものころになくしたおもちゃが、長い年月のあとに、物置からポロッと見つかったような口ぶりだ。
「こんなもの、山ほどあったよ」
父によれば、ネパールのカトマンドゥには、素焼きを売る店がいたるところにあり、灰皿は数十円もしなかったという。
母は目を輝かせ、そこにいきたい、わたしもネパールに行く、といいだした。
年の離れた兄は、汚いとか騙されたという話ばかりが頭に残ったのだろう。ぜったい行きたくないといった。
ぼくは日本のカレーライスさえ食べられないほどスパイスを嫌っていたが、ふかく考えもせず、行ってみたい、と手をあげた。怖いものみたさもすこしあったかもしれない。
インドやネパールは子連れで気楽に行けるような国じゃない、と父は反対したが、母はその翌日から小銭をためるようになった。貯金箱が百円玉や五百円玉でぱんぱんに満たされた二年後の一九九〇年二月、父母ぼくの三人はほんとうにネパールに行くことになった。
それはぼくにとってはじめての外国だった。カトマンドゥの街は、カビと埃と炭のにおいがした。宿のベッドで南京虫に刺され、バスのチケットを求め雨のなか一日中歩き、猿に噛まれ病院でお尻に注射され……毎日が事件だったが、ネパールの人たちはみな人懐っこく、子ども連れのぼくらの家族の世話を焼いてくれた。
おみやげ屋は悪びれもせず、十ルピーのものを百ルピーという。
「ワタシイイヒトヨ~」と近づいてくる人はたいがいうさんくさい。
重そうな荷物を運ぶ小学生くらいの男の子がプカプカたばこを吸っている。
タクシーの運転手とは値段交渉で毎回けんかになる。
なかなかまけてくれない店では、そんなに高いならいらない、と外に出るそぶりを見せると、「まってまって、言い値でいいから」と追っかけてくる。どの店でもまったく同じ反応で、おもわず笑ってしまう。なんだかお芝居をみているみたい。
ここにはいいも悪いも、損も得もない。ぼったくり商人も、ロバをひく少年も、ホテルのポーターも、おおきな物語のなかでそれぞれの役を与えられ、ただ演じているだけかも。
そう考えると、日本のちいさな町の、学校と家の往復のなかで、ぼくがくよくよ悩んでいることなんて、たいしたことじゃない。ようし、カトマンドゥではぼくも「オドオドした日本人旅行者」という役を演じきるぞ、とおもうようになった。
「おかしいな。たしかこのあたりだとおもったけれど……」
父は前の旅の記憶と土地勘をすっかり失っていたので、ぼくら三人はいつも迷子だった。
ネパールの人はたとえ自分がよく知らなくても、自信たっぷりに道を教えてくれる。道を尋ねるときは、何人もの人に聞かないと正解にはたどり着けない。そのことに気づいたのは、旅もおわりに近づいたころだった。
父の知り合いで、カトマンドゥに長年住んでいる日本人の女性がいて、ある日、彼女が旧市街を道案内してくれた。迷路のような路地を右へ左へ、どこをどう曲がったかわからないが、かわった場所にたどりついた。
レンガと木でつくられた古い建物がおり重なるようにして建つなか、中庭のような広場があり、三六〇度ぐるりと素焼きの品じなが並んでいる。手のひらにおさまるほどちいさなランプから、ぼくの背よりもずっと大きいふしぎな動物の置物まで、大小さまざまな焼きものがところせましとひしめいて、ぽっかりひらいた空から降りそそぐ陽光が素焼きの赤土色を輝かせていた。
母にとっては夢にまでみた場所だ。焼きものに囲まれる自分を撮ってほしい、とカメラを手渡された。
そうして、ぼくが撮った一枚がこれである。
何百年もの眠りから目覚めた魔女、はたまた壺に暮らす妖精か。母はずっと昔からここに住んでいたかのように、この風景になじんでいた。
「ただ旅するだけじゃもったいない」
彼女はカトマンドゥの街で見つけたもの、ヤクの毛のセーターや、服、お香、アクセサリー……そして焼きものを持ち帰り、自分が営むたばこ屋に並べた。
その後、毎年ぼくらはネパールやインドを旅行するようになり、たばこ屋はいつの間にか輸入雑貨店となった。
母はよく鼻がきいて、どんな国にいっても仕入れるべきものをぴたりと探しあてた。
持ち帰った品じなはいずれも美しく、そのふしぎな魅力にひきよせられて、いろんな人が店に集まってきた。
値段はどれも良心的。苦労して運んだのにこんな安くていいの? とおもうときもあった。日本ならば数十万円はする貴重なパシュミナショールを、仕入れたときと変わらない値段で売ってしまったかとおもうと、バス停のタバコ屋でみつけたマッチ箱にびっくりするような値段がついている。
「これが高く売れるとか、たくさん売れるとおもって仕入れることはない。自分がいいな、ほしいな、とおもうものを運んでくるだけよ。値段も自分ならこの値段だったら買うな、とおもう金額をつけている」
旅先で見出された「美しいもの」は、けっしておしつけがましくなく、森の木々のようにただそこにある。それはまるであの素焼きの広場のようでもあった。
買うも買わぬもわけへだてなく、店に訪れた人たちは、みな母との会話を楽しんだ。居心地がよかったのだろう。電車にのりおくれた人を車で送っていくこともたびたびあった。その仕事は三十年近くつづき、数え切れない人との出会いが生まれた。
はじまりの旅のときから、ぼくらはかの街を「カトマンドゥ」と呼んだ。
ほかの人が「カトマンズ」といっても、気にせず「カトマンドゥ」と呼びつづけた。べつにかっこうつけているわけじゃない。親しみをこめてそう呼んでいた。
「カトマンドゥ」。その名を口にすると目に浮かぶ。あの年に、親子三人で街をさまよい、雨に打たれたこと。雨やどりした茶店のチャーイで喉をうるおし、ふと目にとまった美しいもの、美しい人たち。だれもがそれぞれの役を演じきっていた。あの瞬間、ぼくらもまた、美しきカトマンドゥの一部だった。
わたしのはじめての旅はインドだった。
1才半だったからきおくがほとんどない。7才になって、3回目のインドに行った時の気持ちはけっこうおぼえている。
「からい物さえ食べられない」
「食べなれていないごはんたべられるかな?」
など色々しんぱいしていたけど、楽しみもあった。
けっきょく、たべれたのは、白ごはんにふりかけかけたものだった。
バングルやさんに行った。道ばたにあるバングルやさん、しょうてんがいの中にバングルやさん。そうぞうもしない所にバングルやさん。すてきなそらいろのバングル、ぎん色のバングル、ガラスがついているバングル、ピンクのバングル、さまざまなバングルがならんでいる。本当に美しいと思う。
たもんの文章を読んで、自分もすやきの広場に行ってみたい……と思った。
自分もいつか家族といっしょにネパールに行ってみたい。たとえ、食べれる物がふりかけごはんであっても。
母はインドでさえ、「お金がないからいきたくてもいけなーい」と言っているのに、その時、お金はあるのだろうか……。
わたしは、ネパールをのりきれるのか分からない。
ま、やってみなきゃ分かんないっしょ。
(web連載「美しいってなんだろう?」はこちらからご覧になれます)