軍艦島にまだ暮らしが息づいていた時の貴重な記録 カラー写真と建築学者の調査報告で生活がよみがえる
記事:創元社
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長崎市内から車で、長崎半島を縦断する国道499号線を南に下ると、小1時間ぐらいで半島の先にある野母崎に到着する。漁港を持つ小さな集落内にある小高い展望台からは、五島列島や東シナ海を見渡すことができるのだが、視界のかなり手前に否応なく入ってくる人工的な浮上物が軍艦島である。長辺が450m、幅が170mしかない小島にぎっしりと建造物が林立するその姿は、展望台からも裸眼で目視でき、倍率を上げたデジカメのファインダーからは、鉄筋コンクリート造の建物の窓枠までもはっきりと確認できる。
敗戦からまだ7年、5月1日にはデモ隊が皇居前に集結し、死者2名、逮捕者1230名を出したメーデー事件のあった1952年の10月27日、長崎港から三菱鉱業所の小型船で京大所属の建築学者であった西山夘三は、知人の研究者らと端島に向かった。島の住宅及び島民の居住状況を「見学」するためである。
当時の端島人口は約4,700人、そのうち炭鉱従業員1,800人(半数は独身)と請負の工事関係者500人をあわせて2,300人ほど。残りの2,400人が、女性・子供を含む従業員の家族構成員であった。
本書は、1952年と1970年の端島調査時の撮影写真、とくに70年に撮られたカラー写真の価値を前面に押し出した作りになっているものの、じつは、1952年調査時の西山夘三と同行者である扇田信によるレポートと、1970年調査時含めその前後に長崎造船大教員として端島調査に従事した、片寄俊秀氏(西山の弟子)によるレポートがとても貴重で興味深い。
たとえば1952年調査レポートの小見出しには、「保健」「採炭量」「給料」「稼働率」「掛売制について」「個人商店」「購買部」「消費生活」「映画」「野球」「読書」「休日」「鉢植、盆栽」「寺と墓地」などの項目が並ぶ。
1970年調査の片寄レポートは、1952年レポートよりもはるかに体系性を備えた生活環境調査で、日本を代表する旧財閥系企業の情報統制下にある孤島で、よくこれだけのことを調べ、かつまた発表したなと素直に感心してしまう内容である。
昨今、日韓の歴史認識問題においても、争点に取り上げられやすくなっている軍艦島であるだけに、第三者による数少ない学術的調査の報告である本書の利用価値は断然上がり、さらに多くの人が手に取るだろうと期待していたのに、どうも実際はごく一部の心ある方々にのみ感銘を、あるいは乗り越えるべき対象を与えているようである。
書籍の運命とはそんなものかもしれないと思いつつも、まだ期待は捨てていない。