汲めどもつきぬミューズの泉 バッハの音楽は「鳴り響く神学」を具現する
記事:春秋社
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バッハが聖書解釈をめぐって、ライプツィヒの神学者・聖職者たちと論戦を交わしていたことは想像に難くない。それがどのようなものであったかを知る手がかりは乏しく、作品そのものに求めるしかないようだ。果たしてバッハは何を伝えようとしたのか――バッハ愛好家にはたまらないテーマであるといってよいだろう。
神学者バッハ像を浮き彫りにする試みに関して、長らく研究を重ねられてきた丸山桂介氏の新刊『バッハ インヴェンチオのコスモロジー』も、バッハの聖書解釈のディテールに及ぶ分析を施して、まさしく「鳴り響く神学」としての作品のありようを志向している。
バッハの思想的な側面へのアプローチはしかし、そう簡単に成せるものではない。それこそ綿密・精緻な聖書・神学研究に即して、飽くなき探究と思索をともなう。さらに、古代ギリシャに遡るヨーロッパの精神史を包括した視点を駆使しなければ達成できないものでもあろう。したがって、こうした視点で取り組む研究者は世界的にも数少ないと言ってよい。丸山氏は、すでに『バッハ ロゴスの響き』(1996年)『神こそわが王 精神史としてのバッハ』(2008年)、『バッハ「聖なるもの」の創造』(2011年、いずれも春秋社)の著作を通してこの研究領域に従事してこられたが、その第4弾となるのが本書だ。
元来、『インヴェンションとシンフォニア』は、「正しい指導法」として構想されたとおり、なにより模倣的様式の練習曲として、なおかつ豊かな趣味による楽想を発明し、発展させる技の例証であり、多様性の中の統一の音楽的表現、音楽における完全さを希求するものとして捉えられてきた。しかし、見方を変えれば、そこには器楽小品にも潜む神学的意味を知ることによって、ますますバッハ理解が深まるものであろうことが示されているのである。
本書は二部に分かれ、PART1はホ長調インヴェンチオ(第6番)の解析、PART2は二つの版がある『マグニフィカート』についての論考となっている。
PART1では、たった62小節の楽曲を手がかりにバッハ創作世界への展望が開かれる。冒頭からシンコペーションのリズムが駆使され、ソプラノとバスの声部の接近と離反、飛び跳ねるような喜びのフィグーラ(音型)が繰り返されるといった特異な構造をもっている。曲集中唯一、反復記号が付されている点もまた意味深長に映る。
楽曲解析の方法としては、バロック音楽に広く用いられたフィグーラの手法に着目し、バッハの諸作品を結ぶフィグーラによるネットワークのダイナミックな展開を見ていく。そして、ここで用いられた「喜び」のフィグーラが、その「喜び」とは何に拠るものであるかという点に焦点が当てられ、カンタータを始めとして受難曲に至るまで、音楽の構造をなすフィグーラの意味を解析しつつ、バッハの他作品に関わる「キリスト論」が述べられる。さらに作品それ自体の象徴的意味づけにおいては、いわゆるゲマトリアの技法が駆使されて、ゲマトリアによる「数」の表象と「キリスト論」の一致が作品の構造に光を当てることになる。PART2 では、本来はルカ福音書のテキストによる「マリアの讃歌」がバッハの手によってキリスト論に変更されていることが突き止められることになる。
本書を通して作品を子細に眺めていくと、こうした象徴的なフィグーラや楽曲を構成するエレメント(音の基本要素)がバッハ作品には縦横無尽に張り巡らされていることが分かってきて興味深い。しかも、器楽曲にも駆使されていて、独特の音調を醸し出していることがあらためて了解されるだろう。
前述のように、バッハの『インヴェンションとシンフォニア』は、「正しい指導法」とうたわれているように学習者のために書かれており、作曲者自身が模範的な解答をそのなかに示しているわけだが、それが実はたんなる技術養成の面にとどまらず、楽曲の意図が豊かな音楽性を築き上げるものであることに気づき、感動的ですらある。
かくて、バッハ作品に意図された聖書の世界とその神学的意味と独自の作曲技法を解き明かす本書の意図、すなわちホ長調インヴェンチオの「喜び」のフィグーラをてがかりに神学的バッハ像を描く構想は明らかだと言ってよいだろう。
そして、極めつけは、当曲集の教育的意味の真のメッセージに他ならない。
バッハは『ロ短調ミサ』との関わりから、『インヴェンションとシンフォニア』に通底する基礎素材をなすinventio がここにあることを証して、曲全体の表現の基体がGratias(感謝)と Dona(平安)にあることを重要視する。
恐らく曲集のどの「作品」を演奏する場合でも表現の基礎には感謝と平安の祈念が横たわっていること、かつその感謝と平安の祈念が何に由来するのかという原因の探求と解明が、この曲集を手にする各自に課せられた課題なのだということを知解することが最重要課題であると言わなければならないであろう。
そして、丸山氏は章を終えるにあたって、こう論じている。冒頭に引いた森有正の「人間的動機」が意味するものに呼応するかのように。
バッハは「ムーシケー」に関して、容易にはその意味を捉えがたい次の言によって書き記した――「音楽を手に私は学術を修めた」。…ドレスデンの宮廷に献呈された『ミサ』に添えて、バッハは音楽を修めたと言ったのではない。バッハは、宮廷という生きる学術の館に向かって、またミサというキリスト教的神学宇宙論の本質を衝いて、自分は音楽における「学術」を修めたと言ったのでる。…生涯を通じてバッハが何と、何のために闘ったのか。キケロにおける共和制のローマはバッハにあって、神の共同体の形をとる理想国家であった。その弁護のためにバッハはあたう限りの努力を傾注して「音楽を手に学術を修めた」のであった。