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東京人が歩く京都 森まゆみ「京都不案内」

記事:世界思想社

Image by JordyMeow from Pixabay
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 還暦を過ぎて、ふたたび京都に通うようになったのは二〇一五年の五月からだ。

 それまでは、仕事で行っても、ゆっくり滞在しないですぐに帰ってきた。ホテルも高いし、食べ物屋も高い。名所旧跡は混んでいる。もう一渡り見ちゃったしな、それも今よりずっと空いている、風情のある時代に。それに私は京都がなんとなく苦手だった。

初めての京都

 私が初めて京都に行ったのは、一九六七年、中学に入る前の春休みだった。

 東京オリンピックに合わせて一九六四年、新幹線が大阪まで開業した。

 父が、新幹線で奈良と京都に行こう、と言い出したのだ。それは父らしい、一泊二日のウルトラ盛り込み過ぎの旅で、タクシーを頼んで、一日に一〇くらいもお寺を訪ねた。一日目は奈良の東大寺や興福寺を見学、京都に移動し、古い旅館に泊まる。

 京都で拝観したのは清水寺、金閣寺、銀閣寺、龍安寺の石庭、苔寺とも呼ばれる西芳寺、泉涌寺などだったと思う。あとは忘れた。私は西芳寺の美しい苔に惹かれた。

 運転手さんが湯葉料理の店に案内してくれた。生まれて初めて食べる湯葉、そんなにおいしいものでもなかったが、珍しくはあった。

 そしてその日のうちに新幹線に乗って帰ってきた。

古典と京都

 中学に入ると、平凡社の『太陽』という雑誌を集め、『源氏物語』や『枕草子』、『方丈記』、『徒然草』などを読むようになった。『古事記』や『日本書紀』もお小遣いで岩波の古典文学大系を買って読み始め、やっぱり日本の文化は西高東低なのだな、と思った。

 判官贔屓もあって、紫式部よりは、若くして亡くなった中宮定子に仕えた清少納言の方がさっぱりして好きだった。

 ともあれ子供の頃に暗唱したものは忘れずに根付く。「春はあけぼの、ようよう白くなりゆく山際…」「仁和寺にある法師、…」「音のかそけきこの夕べかも」というようなフレーズは、世界のどこにいても風景とともに思い起こされる。

 この前も、エチオピアに行ったとき、夕暮れの鳥の群れに「烏の寝床へゆくとて…」だなあ、と思ったことである。

 そんなわけで、高校に入ると、ユースホステルの会員になり、レンタル料を浮かそうとシーツをリュックに詰め、東山ユースホステルに泊まっては、京都の寺を訪ね歩いた。京都大原の三千院を舞台にしたデューク・エイセス歌う「女ひとり」が流行っていた頃だった。

 行きはお金がないので、夜行の椅子席。早朝に着くと清水への坂を登っていく。野に朝もやがかかって『徒然草』の「あだし野の露、鳥辺野の煙」という一節を思い出す。嵯峨野の念仏寺や落柿舎の辺を歩いたのもその頃だった。

 ガイドブックにある店で湯豆腐を食べたら、次の日は公園でパンをかじる。そんな貧乏旅行で、中学生の方が拝観料が安い場合は、中学生と偽った。

Image by mingsh from Pixabay
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京大には縁がなく…

 実は、大学受験の時に受けたいのは京大だった。長年、京都大学で教えておられた吉川幸次郎先生の『唐詩選』が私のバイブルだったし、その弟子である高橋和巳が小説家として一世を風靡しており、『悲の器』に始まって『生涯にわたる阿修羅として』まで読みふけっていたからである。

 しかし父親に「何もそんなに遠くまで行かなくても近くに東大があるじゃないか」と反対され、数学がまったくできなくて国立には落ちた。

 大学一年の秋、友人たちと京都に行った。寒い中で鞍馬の火祭を見て、山から降りてきて泊まった小さな宿の素晴らしかったことを忘れない。遠くに灯った小さな看板、典型的京町家、お湯を沸かし、色とりどりの浴衣を揃えてくれた女将の心配り、朝ごはんの出汁巻の美味しかったこと。

 それを最後にずっと京都とは縁がなかった。

京都ふたたび

 結婚し、子どもが次々生まれ、シングルマザーとなって食べるのが精一杯で、京都にゆっくり行く暇もお金もなかった。研究会や仕事で行っても、用が終わるとすぐに新幹線に乗って帰った。あらゆる小説や映画、流行歌などで作られた京都イメージを、私は素直にのみこめなくなっていた。

 一九九〇年に全国町並みゼミの京都大会が行われた時は――既に三〇年前になるが――、町並みが高校時代に訪れた一九七〇年代初頭とはかなり違ってきていた。木造下見張り、格子戸を持ち、瓦屋根の京町家はその頃から減り始め、狭い小路に奥歯に物が挟まるようにマンションが建設された。

 ここ数年、観光立国推進基本計画によるインバウンド政策とやらが始まって以来、ますます外国人で混雑する京都は、私には苦手な街となった。谷崎潤一郎は東京日本橋の生まれ育ちだが、関東大震災で自分の愛した東京は消えたとして京都に移住している。今、谷崎が京都を見たら、腰を抜かすに違いない。

 そんな感じで、私は京都に仕事で行っても滞在はしなかった。

 ところが二〇一五年にがんという重い病を得て、治療の後、自分で少しは体のメンテナンスをしなければならなくなった。その時に思いついたのが、そのガンを見つけてくれたNさんという治療家である。彼は週に何度か、京都のある場所で朝の気功の会を開いている。そこに参加したらどうか、と友人が勧めてくれたのである。

 それで私の京都通いがまた始まった。

*「私は京都が苦手だった」の全文はこちらから読むことができます。

*連載「京都不案内」はこちらから読むことができます。

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