骨を折ることができる豊かさ 『人類堆肥化計画』刊行に寄せて
記事:創元社
記事:創元社
『人類堆肥化計画』は、苦しみに彩られている。
わたしは里山に棲息するホモ・サピエンスであり、社会的にいえば一介の落伍者である。わたしの日々は、やむをえずしている週三日程度の賃労働を除けば、自給用に稲や大豆や鶏たちを育むことに費やされている。当然、本を書く経験などそれまでなかったから、本書の話を持ちかけられた時はうれしく思った反面、はたして自分に書けるだろうかと不安だった。とはいえ、本を書いたことはなくとも、以前から仲間と独立系雑誌『つち式』を作っており、その経験を活かせばなんとかなるはずだと自分に言い聞かせた。事実、創元社編集者の内貴麻美さんは『つち式』を読んで声をかけてくださったのだから、と。しかし、やはり執筆は難航した。
内貴さんと最初の打ち合わせでどんな本にするか協議した際、二〇一九年夏に小説家の吉村萬壱さんと行った同名の対談イベントをもとにして書くということになっていた。その対談でわたしが語ったのは、生物学的腐敗に道徳的腐敗を合流させ、さらに腐敗を進めて生きながらに堆肥になることで悦ばしい生活をおくれるのではないかという、普段の里山生活や吉村さんの小説群などから得た着想である。けれどもそれは、対談という思考をテキスト化しなくていい状況下での、そして何かを組み上げる手前の、いまだ曖昧で、気楽な語りにすぎなかったのだ。
わたし自身、後日この対談を「堆肥化」し、何らかの形で深化させたいとは思っていたものの、いざ本にまとめる段になると何をどう書いていいかわからなかったり、言葉にしがたい部分が多くあったりして骨が折れた。おまけに、連載で小刻みに進めるのではなく、いきなり書き下ろしで一冊書くという条件も、もともと遅いわたしの筆をさらに遅らせたのだった。それでも、ゆっくりとした歩みの中で時折見えてくる風景に魅せられて、歩くのをやめることはできなかった。言葉として捕まえることが難しい何かの欠片を、徐々に拾い集めては組み上げていく作業は、多大な疲労とともに得もいわれぬ悦びをもたらしてくれたのである。
本書を書くことは、危険な試みでもあった。
テーマがテーマだけに、乱暴で、口汚くて、不道徳で、反抗的な内容になることは避けられない。くわえて、腐敗や堆肥を語る以上、わたし自身の道徳的腐敗も克明に書く必要がある。生来わたしは腐った性根の持ち主であり、微温的なものを書くよりは性に合っているとはいえ、それでもこうした内容の本を世間に向かって書くというのは、全然勇気の要らないことではなかった。
内容については内貴さんとも何度か議論した。ある時彼女は、攻撃的な本を書くことで当然予想される世間からの目を見越して、それを危惧するメールを送ってきてくれた——特に山尾三省を批判する文章について、「このままいきますよね?」と。たしかに、石を投げることで誰かを傷つけたり、投げ返されて自分が傷ついたりするおそれはあった。しかしなにより恐れるべきは、傷つくことを避けた結果、誰も石を投げない、議論が生まれない不毛な環境になってしまうことではないか。だからわたしは、キャッチボールのように互いに石を投げ合い、受け止め合い、交歓する力を培うことを選びたい、といった内容の返信をしたのだった。
ところで、キャッチボールといえば、最近ではボール遊びさえ禁止されている公園があると聞く。予め禁じることで怪我や器物損壊を未然に防ごうという魂胆なのだろう。だが、危険と愉悦は隣り合わせなのであって、遊びを禁じれば当然その愉しみも失われる。
ちなみに、先日知り合いの小学生が公園でボール遊びをしていて腕の骨を折った(その公園はボール遊びを禁止していない)。高さ三メートルほどの遊具に上って友人とボールを投げ合っていたところ、そこから転落したのだそうだ。たしかに彼は骨折して随分痛かったことだろう。では、彼はそんな遊びをすべきではなかったのだろうか。公園管理者はボール遊びを禁止しておくべきだったのだろうか。わたしはそうは思わない。彼は傷ついたが、落ちるかもしれないという状況でスリルとともにボール遊びの愉悦を味わったのではないか(それに彼は、まさか本当に落ちるとは思っていなかっただろうが、これくらいなら仮に落ちたとしても腕の骨折以上の大事には至らない、といった勘を無意識にも働かせられる少年だ)。
わたしも『人類堆肥化計画』を骨を折って書いたし、これを世に出すことでさらに骨を折る可能性もある。けれども、この経験が非常に愉しいのは確かだ。危険だからといって悦びの温床を一掃するのは、唾棄すべき寡欲的でつまらない行いだと思う。これは妙な言い方かもしれないが、ボール遊びもできない無味乾燥な環境より、骨を折ることができる環境のほうが余程豊かであるはずである。
現在この世界には、差別や格差や気候変動や生物多様性の減退といった、多くの問題が横たわっている。そして、そのいずれにも人間は大幅に関与している。しかし世間を眺めてみると、多くの人々が問題に蓋をして、誰かを傷つけないためだとでも言いながら、結局は自分が傷つかない道を選びすぎているように見える。あるいはまた、問題に対処するためではなく、ただ誰かを傷つけるためだけに、自分が傷つかない場所から不当に石を投げつける者までいる状況は、ほんとうに、草一本生えない痩せ細った荒野を連想させる。
だからこそわたしは、この問題にあふれた世界で、あまつさえその改善策も容易には見当たらない状況にあって、「問題作」でないような本を書きたくはなかった。なるほど、あまりに卑小な存在であるわたしたちは、あまりに巨大で夥しい問題を前にすると目を覆いたくなるものだ。けれども、見ないようにしたところで当然問題はなくならないし、放置される分だけ余計に悪化するおそれもある。わたしは『人類堆肥化計画』を書きながら、この苦しみは苦しいからといって回避できるものとは思えなかったし、回避すべきものとも思えなかった。本を書くという幸運なはずの巡り合わせに傲慢にも不平を垂れながら、その苦みの中の豊饒さに酔い痴れてもいたのである。
そもそも、生きること自体が大問題なのだ。生きることは苦しく、苦いものだ。しかし、苦しみの只中にしかない悦びがある。わたしはそのことを、里山生活をおくっているうちに身をもって知った。だから、苦さを旨さに変える技を養いつつ、苦さを旨いと感じられる図太い舌をも養うことに注力しつづけたい。それは、労力を要し危険でもあるけれども、自粛したり禁止したりすべきことでは断じてないし、それこそが、生まれ堕ちた者の役得であるとわたしは信じている。傷つかないで、一体どんな問題に対処できるというのか。
なお、わたしは本書を書くだけでは飽き足らず、さらに「骨折可能性」の高い仕事に着手しようとしている。それは、棚田に連続する杉山を雑木山に育む二百年計画「里山二二二〇」である。わたしはもう半端な骨折りにはあまり興味がないのだ。個我を超え、人間を超え、社会を超える悦びが手招きしている。詳しくは『人類堆肥化計画』、さらに詳しくは同時期刊行の『つち式 二〇二〇』を読んでいただきたい。