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どうしてなお、現地へ調査に行き続けるのか 『現地嫌いなフィールド言語学者、かく語りき。』に寄せて

記事:創元社

『現地嫌いなフィールド言語学者、かく語りき。』(創元社)
『現地嫌いなフィールド言語学者、かく語りき。』(創元社)

 僕は言語学者である。

 みなさんは、「言語学者」と聞いてどんな人物を思い描くだろう。

 様々な言語をペラペラと話し、むろん自分の母語にも造詣が深く、語源とかに詳しくて、文章力も抜群、スピーチも得意、正しい言葉遣いをする、そんな人物だろうか。

 なるほど。僕は、そんなんじゃないほうの言語学者だ。ガッカリさせたなら、済まない。

言語と技術と限界

 今や世界中の言語がインターネット上に溢れ、近い将来に機械翻訳が全ての言語に対応する、と考えている人も多いかと思う。

 けれどもそんなことはない。世界には七千以上もの言語があるというのが、まともな言語学者の共通認識だ。そして、そのうちの半分以上の言語には、文字が存在しない。つまり、会話はたくさんするけど、読み書きは全くしない。想像してみて欲しいんだけど、そんな言語がネット上に多く見付けられるだろうか。もちろん、ネット上には音声や映像も大量にあるのでゼロだとは言わないが、文字がないというだけで情報量は極端に減る。だって、今でもネット上の「情報」と呼ばれるものの多くは、この記事然り、文字で書かれたものだもの。

 インターネットで世界中が繫がっているような気がしているけど、本当はそんなこともない。今でもネットが普及していない地域はあるし、何なら電気だって全然なかったり、たまにだけあったりするくらいだったりする場所は、幾らでもある。もちろん、そういったところで話されている言語は、ネット上にそう出て来ない。

 世界の広さは、僕たちのちょっとした想像くらい、あっという間に超えて行ってしまう。想像力の乏しい人は、「英語さえ話せれば、世界中でコミュニケーションができる」とかすぐに言っちゃうけれど、日本国内を見ても、そんなことはないと分かるだろう。

手摑みでご飯を食べるバラングルー村の子供たち
手摑みでご飯を食べるバラングルー村の子供たち

言語と調査と現地

 この文章を書いている今、僕がそこそこ話せる言語はたったの三つ。日本語と、ウルドゥー語と、ブルシャスキー語だ。義務教育で習ったはずの英語は、どうにも苦手で、読むことはできるけど話すことはできない。

 一方で、僕がフィールド言語学者として研究している言語はもっとある。フィールド言語学っていうのは、ある言語を話している人たちの暮らしている地域へ直接出向いて行って、実際にその言語を使っている現場で見聞きして調査をしてデータを集め、それをもとに言語研究をする学問のことだ。

 何を間違い、どこで人生を踏み誤ったのか、僕はみなさんが知らないような言語ばかりを研究している。さっき名前を出したブルシャスキー語に加え、ドマーキ語、カティ語、カラーシャ語、コワール語、シナー語などを。研究しているからと言って、ペラペラと喋れるわけではない。こいつらは、どの言語にも文字がない。だからこそ、とても億劫だが、どんなに行きたくなくても、わざわざ現地に行って調査をしないとならない。

 これらの言語はどれも、パキスタン北部の山奥や山裾辺りで話されている。つまり、僕の通っている現地っていうのは、七千mを凌ぐ山々の連なる、パキスタンの山岳地帯なのである。そうそう、ウルドゥー語ってのはパキスタンの国語だ。

ヒンドゥークシ山脈内のカラーシャ人の集落
ヒンドゥークシ山脈内のカラーシャ人の集落

言語とネコと僕

 どんな言語にも、文法がある。(これまでに研究が少なくて)文法書が書かれていなくても、文法は必ずある。文法というのは、話者の間で普段は意識されずに、だけど共通して理解されている、言語を組み立てるためのルールのことだ。共通の組み立てルールがあって、何をどう呼ぶかという共通の了解があって、初めて言語は通じる。

 何をどう呼ぶかというのは、例えばネコという動物を、国語の授業で習う日本語では「ネコ」と呼ぶ、学校で習う一般的な英語では“cat”と呼ぶ、ということ。僕たちは誰もが、頭の中に辞書を持っている。その辞書の日本語の巻には、あの愛くるしくて柔らかくてシュッとしててちょっと爪が鋭くてニャーとか鳴いちゃう萌えの塊のような生物の名称として、「ネコ、ねこ、猫」などという綴りと、発音が登録されているのだ。僕の脳内辞書のブルシャスキー語の巻には(仮にカナ書きすると)「ブシ」、ウルドゥー語の巻には「ビッリー」、カティ語の巻には「プシェシ」と記されている。

 僕はさっき挙げた幾つもの言語を研究して、まずは文法書と辞書を作ろうとしている。どんな言語であっても、ちゃんとしたルールを知り、充分な収録量の辞書さえあれば、自在に作文ができるようになる。つまり、その言語を「識る」ことができる。だから、ルールブック(文法書)と辞書とを作ることが、延いては、その言語を一通り記録したことになるのだ。

「ブシ」から複数形「ブションゴ」を作るのも、ルール
「ブシ」から複数形「ブションゴ」を作るのも、ルール

 調査では、ネコに限らず、思い付くままにありとあらゆる事物の名前を尋ね、文法を理解するために珍妙な質問をし、最近では現地の子どもたちがすっかり関心を失ってしまった昔話や物語などを、積極的に聞き集める。けれども、言語知識に限らず、あらゆる知識というのは、増せば増すほど、不足が見えて来る。だからこそ、何年何十年と研究は続くし、果てがない。

 他者は自己の鏡とはよく言ったもの。世界を知ることは、己を知ることに通じる。そう、僕は両手に余る年数の調査を通じ、現地に対する自分の感情をもすっかり理解してしまったのだった。その感情が何かということは、著書のタイトルにこっそり堂々と書いてある。

 これからもフィールド通いは果てなく続くのにね。だって、これが僕の仕事だもの。

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