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ノーベル賞の受賞者たちはどうやって発見ができたのか? ――チクセントミハイ『クリエイティヴィテイ』

記事:世界思想社

Image by fill from Pixabay
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創造性はなぜ大事なのか?

 本書は創造性(クリエイティヴィティ)に関する本であり、創造性とは何かをみずからがよく知っている現代の人々の人生に基づいて書かれている。創造性とは何かという描写に始まり、創造的な人々がどのように仕事や生活をしているかを検討し、最後に読者の生活を私が調査した創造的な人々の生活にもっと近づけるためのアイデアを提示する。本書に書かれていることは、創造的になるための簡単な方法ではなく、あまり知られていないいくつかのアイデアである。創造性についての現実的な説明は、過度に主張されてきた楽観的な多くの記述と比べるとわかりにくく馴染みのないものである。本書で示したいことの一つは、「創造的」という評価に値するアイデアや成果は、多くの源泉の相乗作用から生じるものであり、決して一人の人間の精神から生まれるものではない、ということである。創造性を高めるためには、人々がより創造的に考えるよう策を講ずるよりも、周囲の環境を変えたほうが簡単である。そして、真に創造的な業績とは、ほとんどの場合、暗闇で電球が点灯するような突然のひらめきによってもたらされるものではなく、長年の努力の結果なのである。

『クリエイティビティ』(世界思想社)
『クリエイティビティ』(世界思想社)

 創造性は、いくつかの理由で、私たちが人生の意味を形成する際の主要な源泉である。ここでは、もっとも重要なものを二つだけ紹介したい。第一に、興味深く、重要で、人間らしいものの大部分は、創造性によってもたらされているということである。私たちはチンパンジーと遺伝子構造の98%を共有している。チンパンジーと私たちを区別するもの――言語、価値観、芸術表現、科学の理解、科学技術――は、人々によって認知され、評価され、学習によって伝達された個人の創意の結果である。実際、創造性がなければ人間とチンパンジーの区別は困難であろう。

 創造性がなぜそれほど魅力的なのかという二つ目の理由は、創造的に物事にかかわっているとき、日常生活のその他の時間よりも充実した生を生きていると実感できることにある。イーゼルの前に立つ画家や研究室の科学者の興奮は、誰もが人生から得たいと願いながらも稀にしか得ることのない理想的な充足感に近い。おそらく、セックス、スポーツ、音楽、あるいは宗教的恍惚感だけが――たとえ束の間で、その痕跡を残さないとしても――、自分自身がより大きな存在の一部になったという強烈な感覚をもたらしてくれる。しかし、創造性も同じように、未来の豊かさや複雑さを高めるような結果を残してくれるのである。

(中略)

注意と創造性

 新しい歌、新しいアイデア、新しい機械が、創造性とは何かを物語っている。しかし、これらの変化は生物学的進化のように自動的に起こるものではないので、創造性が発揮されるために私たちがどの程度の代価を払う必要があるのかを考える必要がある。伝統を変えるには努力が必要である。たとえば、伝統を変えるためにはミームを習得しなければならない。つまり、音楽家は新しい曲を書くことを考える前に、音楽の伝統、表記法、楽器の演奏法を学ばなければならない。発明家は、飛行機のデザインを改善できるようになるまでに、物理学、航空力学、そしてなぜ鳥たちが空から落ちてこないのかを学ぶ必要がある。

 もし何かを学びたいと思ったら、学ぶべき情報に注意を払わなければならない。注意とは限られた資源である。どのような瞬間でも、私たちが処理できる情報はきわめて多量に存在する。どのくらいの情報が存在するのか正確にはわからないが、たとえば、物理学と音楽を同時には学べないことは明らかである。する必要があり、しかも、注意を必要とする他のこと、たとえば、シャワーを浴びること、服を着ること、朝食を作ること、車を運転すること、配偶者と会話をすること、などをしながらでは、十分に学ぶことができない。ここで重要なことは、限られた注意の大半は、その日を生きるための仕事に充てられているということである。一生のうちで、記号体系の領域――音楽や物理学のような――を学ぶために残される注意の量は、このすでにわずかになった量のさらにほんの一部でしかないのである。

 これらの単純な前提からいくつかの重要な結論が導かれる。まず、ある既存の領域で創造性を達成するためには、利用できる剰余の注意〔つまり、心理的エネルギー〕が必要だということである。これが、紀元前五世紀のギリシャ、十五世紀のフィレンツェ、十九世紀のパリといった創造的活動の中心地が、生存に必要なこと以上の学習や実験を人々に許す豊かな場所であった理由である。また、異なる文化の交差点、つまり、信念やライフスタイル、知識が混ざりあう場所であり、人々に発想の新たな結合の可能性を容易に感じさせる場所が、創造的活動の中心地となる傾向にあるということも真実のように思われる。画一的で厳格な文化で新しい思考方法を生み出すには、多大な注意を注ぐ必要がある。言い換えれば、創造性は、新しいアイデアがさほど努力することなく理解される場所で生まれる可能性が高いということである。

 文化の進化にともない、一つ以上の領域の知識を習得することが次第に困難になる。最後の真のルネサンス的教養人が誰なのかはわからないが、レオナルド・ダ・ヴィンチ以降いつ頃からか、いくつかの分野に精通した専門家になろうとしても、あらゆる芸術や科学について十分に学ぶことが不可能になってしまった。領域は下位領域へと細分化され、代数学を修得した数学者が整数論、組み合わせ論、位相幾何学について多くを知らない――あるいはその逆が起こりうる状況である。過去においては、一人の芸術家が絵を描き、彫刻を彫り、金を鋳造し、建物を設計することが普通であったが、今日では、これらの特殊技能はそれぞれ、別の人々によって習得される傾向にある。

 したがって、文化が進化するにつれて、一般的な知識よりも専門的な知識が重視されるようになる。こうしたことの必然性を理解するために、物理学を勉強している人、音楽を勉強している人、その両方を勉強している人の三人がいると仮定しよう。他のことはすべて同じとして、音楽と物理学の両方を勉強している人は注意を二つの記号体系の領域に分散させる必要があるが、他の二人は注意をもっぱら一つの領域だけに集中させることができる。その結果、専門的に特化した二人は自分の領域をより深くまで学ぶことができ、彼らの専門知識は二つの領域を専門とする人の専門知識よりも好まれることになる。そして、時間とともに、専門家たちは文化におけるさまざまな組織の指揮権や管理権を引き継ぐことになる。

 もちろん、この専門化への傾向は必ずしも良いことではない。それは、聖書におけるバベルの塔の建築の物語のように、文化の分裂状態に容易に至ってしまう。また、本書が残りの部分で詳細に示すように、創造性は一般的に領域の境界を越えることをともなう。それによってたとえば、物理学から量子力学を取り入れ、それを分子の化学結合に応用する化学者は、化学の領域にのみ留まっている化学者よりも、化学に対するより実質的な貢献ができるだろう。しかし同時に、私たちがいかにわずかな注意をもって仕事にあたらなければならないかを考え、領域に絶えず追加され、増えつづける情報量を考えるとき、専門化は不可避であると認識することも重要である。この傾向を反転させることは可能かもしれないが、しかしそれは、代替手段を見つけるための意識的な努力をすればということであり、そのままの状態にしてあれば、専門化は続く運命にある。

 限られた注意のもたらす別の結果は、創造的な人々がしばしば風変わり――時には傲慢で、自己中心的で、無慈悲――とさえみなされていることである。心に留めておくべき重要なことは、これらは創造的な人々に特有の特性ではなく、他の人々が自分たちの認識に基づいて創造的な人々のものとした特性だということである。注意のすべてを物理学や音楽に集中し、私たちを無視したり、私たちの名前を忘れてしまう人に会ったとき、没頭している対象からほんのわずかでも注意を割くことができたらきわめて謙虚で親しみやすい人であったとしても、私たちはその人を「傲慢」と呼んでしまう。もしその人が、あまりに自分の領域に没頭していて私たちの要望を考慮に入れ損なうと、たとえそのような態度はその人の本意とはかけ離れたものであったとしても、私たちはその人を「鈍感」あるいは「利己的」と呼ぶ。同様に、もし彼が、他の人々の計画に構わず自分の仕事を推し進めたとしたら、私たちは彼を「無慈悲」と呼ぶだろう。しかし、すべての注意をある領域にささげることなく、そしてその結果、創造的な人の注意を引きつける権利があると自負する人々の目に、傲慢で自己中心的で無慈悲な人物として映ることなしに、領域に変化をもたらすほど深くその領域を学ぶことは実質上不可能なのである。

 実のところ、創造的な人々は一つのことにひたむきなのでも、専門に特化しているわけでも、利己的なのでもない。実際は、その逆のように思える。隣接する知識の領野と関連づけて考えることを好む。傾向として、――原則的には――思いやりのある、感受性の鋭い人々である。しかし、彼らの役割が必然的に彼らを専門化と利己的行動へと押しやる。創造性にまつわる多くの矛盾のなかで、おそらくこれがもっとも避けがたいものである。

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