『NYタイムズ』『ニューズウィーク』『タイム』で絶賛 チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』
記事:世界思想社
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2300年前アリストテレスは、男女を問わず人は何にもまして幸福を求めるものだという結論を得た。幸福がそれ自体として追究される一方、幸福以外の目標――健康になる、美しくなる、金持ちになる、権力を得るなど――が高く評価されるのも、それらが我々を幸福にするという期待があるからにほかならない。
時代はアリストテレスの頃から大きく変わった。(中略)しかしこの間、幸福という最も重要な問題についてはほとんど何も変わっていない。我々は幸福とは何かについてアリストテレス以上に理解しているわけではないし、この至福の状態に至る方法についての知識は、まったく進歩していないといえよう。
現在、我々は昔の人より健康で長生きしているという事実、(中略)我々が駆使できるすべての広範な科学的知識にもかかわらず、人生を無為に過ごしたと感じ、幸福に恵まれず不安と倦怠の歳月を過ごしたと感じながら生涯を終える人が多い。
これは常に不満を残しながら、各自がもつことのできる以上のものをたえず欲しがるという人の宿命によるものなのだろうか。それとも、最も貴重な時でさえ不快なものにしてしまうことの多いこの鬱屈の蔓延は、我々が間違ったところに幸福を求めている結果なのだろうか。
本書は現代心理学の知識を用いて、はるか昔から続くこの問題を探ることを目的としている。人はどのような時に最も大きな幸せを感じるのだろうか。この答えを見いだす手掛かりが得られるならば、我々はついには幸福が大部分を占めるように生活を秩序づけることができるかもしれない。
この本を書き始める25年前、私は1つの発見をしたのであるが、その後私は一貫してそれを明らかにしようとしてきた。(中略)私が「発見」したのは、幸福というものは偶然に生じるようなものではないということである。
それは幸運や偶然の産物などではない。それは金で買えたり、権力で自由になるというようなものでもない。それは我々の外側のことがらによるのではなく、むしろ我々がことがらをどのように解釈するかによるものである。事実、幸福とは一人一人に開かれているものであり、人それぞれによって守り育てられるべき状態なのである。内的な経験を統制できる人は自分の生活の質を決定できるようになるが、それは我々のだれもが幸福になれるということとほぼ同じことである。
しかし意識して探し求めても幸福になることはできない。J.S.ミルは「幸福か否かを自らに問うことによって、人は幸福ではなくなる」と述べた。我々は幸福を直接探そうとすることによってではなく、良きにつけ悪しきにつけ、自分の生活の一つ一つの細部に深く沈潜することによって幸福になるのである。
オーストリアの心理学者V.フランクルは彼の著書『夜と霧』の序文で、このことを見事に言い表している。「成功を目指してはならない――成功はそれを目指し目標にすればするほど、遠ざかる。幸福と同じく、成功は追求できるものではない。それは自分個人より重要な何ものかへの個人の献身の果てに生じた予期しない副産物のように……結果として生じるものだからである」。
それでは、どのようにすれば直接的な方法では達成できない、このとらえどころない目標に到達することができるのだろうか。私は過去四半世紀にわたる研究で、その方法があることを確信した。それは、意識の統制に始まる、遠い道のりを歩むということなのである。
人が生活をどう認知するかは、快または不快の感情と結びつきながら経験を形作る数多くの要素の結果であるが、これらの要素のほとんどは統制できない。自分の容貌・気質・体質について自分の手で変えられるところは少ない。我々は――少なくとも今のところ――どこまで身長が伸びるか、どこまで賢くなれるかを決定することはできない。親や誕生日を選ぶこともできない。
また戦争が起こるか、不景気になるかを決めるのは、あなたの力でもなければ私の力でもない。遺伝子の指令、引力、空中の花粉、生まれた歴史上の時期――その他無数の条件が、我々が何を見、何を感じるか、何をするかを決定する。人の運命は一時的には外部の要因によって決定されると信じなければいけないとしても別に驚くことではない。
しかし、自分は不可知の力によってもてあそばれているのではなく、自分が自分の行為を統制し、自分自身の運命を支配しているという感じを経験する時はだれにもある。まれにそれが生じると我々の気分は高揚し、長いこと待ち望んでいた深い楽しさの感覚が生じ、その感覚は生活のあるべき姿を示す道しるべとして記憶に残るのである。
最適経験という言葉が意味するものはこのようなものである。それは進路を正確にたどっている船乗りの髪を風がなびかせる時、ヨットが若駒のように波間を突き進み――帆/船体/風そして海が船乗りの血管の中でハーモニーを奏でている時、そういう時に感じられるものである。またキャンバス上で色彩が互いに魅力ある緊張を構成し始め、新しい何か、生き生きした形が、目前で輪郭を現わし始めた時、それに驚嘆しながら制作している画家が感じるものである。あるいは、自分の微笑みに子供がはじめて応えた時の父親の感情である。
しかし、このようなできごとは外部の状況が好適な時にだけ生じるのではない。強制収容所で生き延びた人々や、命に関わる身体的危機をくぐり抜けてきた人々は、苦役のただなかに、あるいは森の鳥の歌を聞く、困難な作業を成し遂げる、友人と堅いパンの一片を分かち合うなどの単純なできごとの中に、きわめて豊かな至福の感情が現われたという経験を回想することが多い。
一般に信じられていることとは逆に、このような瞬間、我々の生活での最良の瞬間は、受動的、受容的な状態でくつろいでいる時(中略)に現われるのではない。最良の瞬間は普通、困難ではあるが価値のある何かを達成しようとする自発的努力の過程で、身体と精神を限界にまで働かせ切っている時に生じる。このように最適経験は我々が生じさせるものなのである。
それは子供がこれまでよりも高く積み上げた積み木の塔にふるえる手で最後の積み木を乗せようとする時、水泳競技者が自己記録を破ろうとする時、バイオリニストが複雑な楽節を弾きこなそうとする時に生じる。だれもが自分自身を拡大する挑戦の機会を無数にもっている。
このような経験が生じる時、それは必ずしも快いものとは限らない。泳者の最も記念すべきレースのさなか、彼の筋肉は痛み、肺は爆発しそうになり、疲労で目のくらむ思いがするだろう。――しかし、これが彼の人生で最高の瞬間であったということはあり得ることなのである。生活を統制するということは容易ではなく、時には非常に苦しいものでもある。しかし結局、最適経験は考えられる他のどの言葉よりも、一般に幸福という言葉で意味されるものに近い達成感――おそらくより適切な表現としては、生活の内容の決定に関わりをもったという感覚――を生むのである。
私はこれまでの研究の過程で、人は最も楽しい時にどのように感じているか、そしてそれはなぜかをできるだけ正確に理解しようと努めた。私の最初の研究対象は数百人の「熟達者」――芸術家、競技者、音楽家、チェスの名人、それに外科医――言葉を換えれば、自分が本当に好きな活動に時を費やしている人々であった。活動している時にどのように感じているかについての彼らの説明から、私はフロー――1つの活動に深く没入しているので他の何も問題とならなくなる状態、その経験それ自体が非常に楽しいので、純粋にそれをするということのために多くの時間や労力を費やすような状態――という概念に基づく最適経験の理論を作りあげた。
この理論モデルに従って、シカゴ大学での私の研究チームが、後には世界各地の共同研究者が、異なる人生を歩む数千人の人々に面接調査を行った。これらの研究から、最適経験は文化の差を越え、老若男女を問わず、経験者によって同じように表現されることが明らかとなった。フロー体験は(中略)韓国の老婦人、タイやインドの成人、東京のティーンエイジャー、ナヴァホの羊飼い、イタリア・アルプスの農民、そしてシカゴの工場のベルトコンベアーの労働者などによって、基本的には同じ言葉で報告されたのである。
初め我々は面接や質問紙によってデータを集めたが、より精緻化をはかるため、後に主観的な経験の質を測定する新しい方法を開発した。経験抽出法〔Experienced Sampling Method〕と呼ばれるこの方法は、被験者に1週間ポケットベルを携帯させ、ベルが鳴った時どのような気分でいるか、何を考えているかを書かせるものであった。ベルは無線送信装置で毎日無作為の感覚で8回鳴るようにした。1週間後、各回答者はベルが鳴った瞬間の行為や、その時の気分についての一連の記録、つまり自分の生活について書かれた、いわば映画フィルムから切り取った1コマ1コマをすべて会わせたような記録を提出する。現在では10万例以上のこのような経験の標本が世界各地から集められている。本書で導き出された結論はこれら一群のデータに基づいている。
私がシカゴ大学で始めたフローの研究は今では世界中に拡がっている。(中略)フローという概念は、幸福や生活の満足、内発的動機づけについて研究している心理学者、フロー概念の中にアノミーや疎外とは逆の現象を認める社会学者、集団的興奮や宗教的儀式にみられる諸現象に関心を寄せる人類学者等によって研究上有益であることが明らかにされてきた。幾人かの研究者はフローの意味を人類の進化を理解する試みに、またある者は宗教的経験を明らかにする試みにまで拡張してきた。
しかしフローは学術的な研究主題であるだけではない。フローについての著書が最初に出版されてから数年のうちに、その理論は現実的なさまざまな問題に適用され始めた。その目標が生活の質を改善するということであれば、フロー理論はいつでもその方法を指示することができる。それは実験学校のカリキュラム作成、企業の幹部訓練、レジャーのための製品やサービスの計画にも役立てられてきた。フローは臨床心理療法、非行少年のリハビリテーション、老人ホームでの活動組織、博物館での展示の立案、障害者の職業訓練等のアイデア創出と実践に利用されてきた。これらのすべてはフローについての最初の論文が学術雑誌に現われてから10年あまりのうちに生じたのであり、この理論の影響力はこれからさらに大きくなるきざしがある。
(第1章「はじめに」より)