私が対峙するもう一人の〈私〉に出会う ライフサイクルにおける自我体験とは
記事:創元社
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人は3度生まれる。1度目は、おぎゃあと産声を上げて母体から出てきたとき。2度目は、言葉の世界に参入したとき。3度目は、〈私〉という主体を発見するときである。
ヒトが人となるために、2度目の誕生がいかに重要かは、ヘレン・ケラーの逸話に知られるとおりである。三重苦を背負って野生児のようであった彼女は、あるとき庭で蛇口から手に受けた冷たい水と、「W・A・T・E・R」というサリヴァン先生が掌に指で書いた文字から、一瞬にしてものには名前があることを悟り、そこから生まれ変わったように成長する。言語で成り立つ象徴世界に参入することではじめて、人は他者とともに生きられるようになる。
さらに、人は子ども時代の後半から思春期の入口あたりで、思考し、志向する主体としての〈私〉と出会い、内省的な世界のなかに生まれ直す。心理学では「自我の発見」と呼ばれてきたできごとである。それまでただ無邪気に生きていた私は、私に問いかけ、私と対峙するもう一人の〈私〉を発見して慄く。「私とは誰か」と問い、無限の彼方から自分をまなざすとき、世界の見え方は一転する。ある人にとってはただ不思議な、別の人にとっては甘美な、また他の人にとっては自分と世界が崩壊するような恐怖ともなる体験。その主観的経験を記憶する人にとって、これは鮮烈な3度目の誕生である。
20世紀初頭の青年心理学者たちは、人のそのような3度目の誕生を、「自我体験」と名づけた。本書は、それらの研究を最初の手がかりにし、筆者が40年近くかけてたどった、自我体験をめぐる心理学的研究の旅の記録である。
眠れぬ独りの夜、鏡を見た朝、親友に裏切られた日、深い山で空を見上げた瞬間――さまざまなきっかけで、人は、自分自身を対象化してとらえる「主体としての私」のはたらきに気づく。それは、私でありながら未だ私でない誰かと出会うということでもあり、突然に自分と世界が変容する体験ともなり得る。
そう考えると、〈私〉と出会う体験というのは、「やっと出会えた」という喜びの場面になるとは限らないことがわかる。「ああ、私は〈私〉だったのだ」と最初から納得される、幸運な出会い方をする人がいないわけではないと思うが、漠然とした違和感や不安だけを残したり、見えていなかったものが突然目の前に姿を現し、その存在を認めよと迫ってくる、圧倒される不可思議な体験として意識したりする人のほうが多いのではないか。そして、そのような出会いの体験は、一度きりで終わるとは限らず、時を変え、形を変えて、人生の経過の中でふいに訪れるものなのではないかと考えられる。〈中略〉
たいていは誰にも見えず、誰にもそれと知られないで過ぎていく私秘的なできごとでありながら、人生の分岐点ともなり得るようなこの不思議な経験を、心理学はどのように理解し、研究し、位置づけてきたのだろうか。とりわけ、個人の個性化の過程を支える心理臨床の領域においては、この、〈私〉との出会いの体験が人生にとってもつ意味を明らかにしていくことは、重要な課題であると考えられる。筆者は、学生相談という現場で長く臨床実践を行ってきたが、青年期に不登校や離人症状などを呈した学生が自分の過去をふりかえるとき、子ども時代のあるときを境に、自分や周囲(家族・友人)が突然全く違ったものに見えるようになったという鍵体験を想起し、語ることがあるのに気づいた。〈私〉との出会いによって生じた内面の混乱や亀裂が、そのまま誰にも受け止められずに持ち越されていったとき、長い時間の後に不適応や病理的症状として顕在化することがあるとすれば、その最初の体験のありようを、できるだけ客観的に、そして詳細に知っておくことは、心の援助を行う者にとってとても重要な意義をもつのではなかろうか。
以上のように、自我体験をライフサイクルの観点からみたとき、それぞれの時期における主観的な体験のされ方と想起のされ方には特徴があることが見出された。それと同時に、自我発達や生涯発達の節目において、私が〈私〉と出会い、その関係(自己関係)を再構築するときの主観的体験は、ライフサイクルのどの時期かにかかわらず、分離と結合という両義性をもったダイナミックな動きを伴い、自己形成上に大きな影響を及ぼす可能性があることも示唆された。臨床心理学領域における自我体験の研究が共通して見出してきたように、自我体験は、心理療法が目指すところの、個々人の「個性化」の過程の節目で起こる変容の主観的体験と同型とみなすことができる。その非日常性ゆえに、言語化されないまま忘却される場合や、逆に意識的に捕らわれて、解決を求めて長く内省的自問を続ける場合など、さまざまなパターンがみられるが、心理臨床家にとって重要なのは、自我体験とそれに続く反応の過程が成長を疎外したり、破壊的な方向に進んだりすることのないように、個々人に付き添える力を養っておくことであると言える。〈中略〉
今後の探究の主題として取り組む必要があるのは、多元的自己の時代と言われるようになった今日から未来に向けて、〈私〉との出会いの様相はどのように変化していくのかを追跡することである。抜き差しならない私と〈私〉の出会いを体験した筆者にとって、複数の私と〈私〉の出会いが主観的にどのような様相をとり、自我体験はどのように変化していくのかは、想像を超える領域である。鏡が複数あり、それぞれに異なる自分の顔が映るとき、人はどのような「私」という感覚を確かなものとして育てられるのであろうか。私と〈私〉が対峙することを求める時代社会の圧力は減じている。しかし、言語化できず、意識化できない次元の体験も含め、自我体験が自己形成において重要な役目を果たすことはこれからも変わらないであろうと考えられる。
ともあれ、ここに至る筆者の一連の探究が、心理臨床家をはじめ、人が生きることと関わる多くの実践家および研究者にとって、少しでも役に立てば幸いである。