どうして「私」(という意識)が、「自分」(の肉体)に宿ったのか? 『脳はなぜ「心」を作ったのか』より
記事:筑摩書房
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「意識」や「脳」、「身体」のような概念を、哲学者たちは「自分」「私」<私>のような言葉で表現する。「 」や< >など、変なかっこの形で区別されると、慣れないうちは話が余計ややこしくなるような気がするかもしれない。しかし、最大の謎である「意識」の問題点をはっきりさせるためには、これらの定義をご理解いただく必要がある。人によっていろいろな定義があるのだが、ここでは一般的な定義のひとつを紹介しよう。
プロローグで書いた私の幼いころの疑問をこの章での定義を使って書くと、
「私」が「自分」に宿るのはわかるが、どうして<私>が「自分」なのかがわからない。
ということだった。これだけ書くとわけがわからないが、説明していこう。次の図をごらんいただきたい。
ここでいう「自分」とは、自分のからだと脳を含めた、個体としての、あるいは、ハードウエアとしての自分のことだ。例として、筆者についていうと、この二十一世紀に日本で生きている前野隆司の肉体を、脳などの器官を含めて指すものとする。
一方、「私」とは、前野隆司の「意識」のことだ。だから、「私」(前野隆司の意識)が「自分」(前野隆司の肉体)に宿るということはわかる。もちろん、「私」(意識)は「自分」の脳が作り出すと考える一元論者なら、だが。
つぎに、<私>と「私」の違いについて述べよう。「私」は、前野隆司の現象的な意識のことだが、<私>とは、そのなかから、ものやことに注意を向ける働き(awareness)の部分を除いた、自己意識について感じる部分のことだ。つまり、<私>とは、自己意識の感覚──生まれてからこれまで、そして死ぬまで、自らが生き生きと自分の意識のことを振り返って、ああ、これが自分の意識だ、と実感し続けることのできる、個人的な主体そのもの──のことだ。<私>を振り返って、ああ、<私>だ、と感じる、再帰的な意識の状態のことだ。
たとえば、哲学者がよく例にあげる思考実験だが、「自分」の肉体を脳も含めて完璧にコピーできる機械があったとしよう。この機械で、前野隆司とうりふたつの複製を作った場面を想像していただきたい。
このとき、複製された前野隆司二号は、もちろん「意識」を持っていて、「私」も前野隆司だと言うだろう。何しろ、何もかも同じなのだ。しかし、さっきまで前野隆司の自己意識だったし、ずっと連続して前野隆司一号のほうの自己意識であり続ける<私>は、たったひとつだけだ。<私>が二号に乗り移るわけもなく、二号のほうの自己意識はぶきみな他人の自己意識であって、<私>ではないとしか思えない。こういう存在が、オリジナル前野隆司のほうの<私>だ。
別の思考実験をしてみよう。ある朝起きてみると、脳の中の<私>、つまり、自己意識をつかさどる部分が他人の脳に移植されていたとしよう。すると、<私>の肉体が前野隆司ではなくなったばかりか、記憶を意識する「私」も他人のものに移り変わっているはずだ。つまり、<私>は<私>のまま連続だが、「私」も「自分」も昨日までの前野隆司のそれではなくなってしまったということになる。
つまり、<私>は、「私」の自己意識から、前野隆司の意識である、という意味を除いた部分だということができる。
幼いころの私の疑問も、その点についてのものだった。この長い人類の歴史の中で、何十億人という人間の中で、どうして<私>は、前野隆司の自己意識として「私」の中に宿ったのだろう。千年前に生まれた人の自己意識だったとしても、今の隣の家の住民の自己意識だったとしてもよかったのに、なぜ、<私>は、今の「自分」の自己意識として生まれたのだろう。なぜ、ほかの時代と場所には出現しなかったんだろう。
仮に<私>が前野隆司の隣の家に住む人の脳に宿っていたとしよう。するとその人(<私>)の隣に住む前野隆司は今と同じ親の下に同じ遺伝子を持って生まれ、同じ性格と容姿と能力を持ち、同じように育ち、同じように今この文章を書いていることだろう。何しろ物理的に全く同じなのだから。違うのは、前野隆司が<私>にとって「自分」でなく、隣の住人であるということだけなのだ。それとも、その場合の前野隆司は、物理的には同じであるにもかかわらず、<私>でないという理由によって、<私>の肉体であった場合と違った人生を歩むのだろうか。だったら、「私」の中の何までが<私>なんだろう。
ご理解いただけただろうか? 他人の「意識」があるのはわかるが、どうして<私>だけが、他のすべての「意識」とは違って<私>なのか、と疑問に思うことのできる、その<私>のことだ。
成長するにつれ、この疑問のことはすっかり忘れてしまっていた。時々思い出しては不思議に思い、友達に説明したこともあったが、なかなかうまく説明できず、こんなことを考えるのは<私>だけなのかと途方に暮れたものだ。
しかし、三十歳くらいのころ、哲学者永井均の本『<こども>のための哲学』(講談社現代新書)を読むと、同じ疑問が書かれていた。同じことを考えている人がいることをはじめて知り、嬉しくて、永井先生に連絡を取ったものだ。同じようなことを考える人は多くはないもののそれなりにはいるそうだ。そして、この問題は独我論(自分がいなければ世界もないのではないか、という疑問についての哲学)の一種(変種?)であるということを知った。
ただし、幼いころの疑問への答えを知りたくて、いろんな本を読んだ結果、どうやら、この、なぜ<私>だけが<私>か、という謎は、哲学者の間でも未解決の問題だということがわかってきた。