空海の説く、心の十の階梯 仏教概論にも最適な十住心の教え
記事:春秋社
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日本仏教に密教をもたらし真言宗を開いた空海の著作に『秘蔵宝鑰』があります。「ひぞうほうやく」と読みますが、この難しい書名の意味は何でしょうか。著者の解説を見てみましょう。
「秘蔵」とは、人間の心の中には、自分に気づかれなくとも、あらゆる功徳が蔵されていることを意味しています。それらの内容がどのようなものであるかは、第十住心の説明において、明確になってくるでしょう。「宝鑰」に関して、鑰は鍵ですが、その本来の意味は、開く鍵ではなくて、閉ざす鍵の方、錠前のほうにあります。鍵鑰というとき、鍵は開くカギで、鑰はむしろ閉ざしているカギです。ですから「宝鑰」とは、大変な功徳が秘密裏に蔵されている、その箱と言いますか世界と言いますか、そういう意味合いになります。
私たちの心の中に隠されているすばらしい功徳、世界を解き明かすことが、この書の目的となります。では、すぐにそのすばらしい功徳や世界を示すのかというと、そうではありません。空海は私たちの心のあり方を十段階にわけて、順々に説いていき、最終的に最高の密教の世界へと導いていきます。
それでは、その十段階の心とはどのようなものでしょうか。
第一 異生羝羊心(いしょうていようしん)…凡夫そのもの
第二 愚童持斎心(ぐどうじさいしん)…儒教
第三 嬰童無畏心(ようどうむいしん)…バラモン教
第四 唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)…声聞乗(しょうもんじょう)
第五 抜業因種心(ばつごういんじゅしん)…縁覚乗(えんがくじょう)
第六 他縁大乗心(たえんだいじょうしん)…法相宗(ほっそうしゅう)
第七 覚心不生心(かくしんふしょうしん)…三論宗(さんろんしゅう)
第八 一道無為心(いちどうむいしん)…天台宗(てんだいしゅう)
第九 極無自性心(ごくむじしょうしん)…華厳宗(けごんしゅう)
第十 秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)…真言宗(しんごんしゅう)
第一住心は欲望のままに生きる凡夫の段階、第二住心はそこから世間の倫理に目覚める段階、第三住心は宗教に目覚め善行を積む段階です。第四住心から仏教に入りますが、第四と第五は小乗にあたります。第六住心から大乗に入り、法相宗は唯識思想に、三論宗は空を重視する中観思想に相当するインド由来の宗派で、『法華経』を重視する天台宗と『華厳経』に基づく華厳宗は中国で生まれた宗派です。インド仏教から中国仏教へとあがり、最後に再びインドで誕生した密教の教えへとゴールします。
このように欲望のままに生きる凡夫の段階から、倫理や宗教に目覚め、仏教の教えに入り、小乗から大乗、密教へと順次のぼっていきます。それぞれの段階はさまざまな学派の思想に対応し、一種の仏教概論のようにもなっており、仏教全体の思想について学ぶこともできるのです。
一番はじめの迷える凡夫の姿を空海は次の有名な詩で表現しています。
三界の狂人は狂せることを知らず 四生の盲者は盲なることを識らず 生れ生れ生れ生れて生の始に暗く 死に死に死に死んで死の終に冥(くら)し
私たちは、狂っていることも見えていないこともわからずに、生死輪廻を永遠に繰り返しているわけです。そのような様子を憐れみ、空海は十住心によって、私たちをだんだんと悟りの世界へと導くのです。そのことをうけて著者は仏教とは何かを解説します。
今から今しかない、そこに根源的な主体を自覚し、解脱していく、そのような方向ではないかと思います。しかしそのようなことも凡夫にはなかなか気づかれないでいます、そして生死輪廻に苦しんでいます。苦しみには、現実社会を生きていく中でのさまざまな具体的な苦しみもありますが、一番の根本の苦しみはやはり、自己とは何かということが、わかりえないでいることにあるでしょう。このことを深く自分で肯くということがあれば、さまざまな苦しみにも耐えていけるし、ある意味では解決していくのだと思うのです。結局、本当の自己とはいったい何なのかという、その落ち着きです、肯きです。それが一番肝心なところではないかと思います。仏教はそのことについて自覚をもたらしてくれるものなのです。いろいろな宗派がありますが、根本はそこにあるということではないかと思います。
仏教の核心は、自己の本分を明らかにし、そこに落ち着くことにあるわけです。『秘蔵宝鑰』の主旨もそこにあることはかわらないでしょう。しかし、いろいろな仏教の教えの中でも、空海は究極的な心の世界として密教を最後に紹介するのです。
『秘蔵宝鑰』は1200年も前に書かれた書ですが、当時あった仏教のそれぞれの教えを簡潔明瞭にまとめています。その空海の該博な知識と自在な叙述の手腕には目を見張るものがあります。本書は語釈を廃し読み進むままにその内容を理解できる講義形式になっていますので、読書の秋の一冊として、空海の格調高い文章と仏教の豊かで奥深い教えに触れてみるのはいかがでしょうか。