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自己の業(ごう)が自己をつくる 業の問題をパーリ仏教から読み解く

記事:春秋社

業はブッダの人間主義の教え

 業(ごう)という言葉は、「自業自得」などの熟語もあるように、日常の言葉として根付いていると言えるだろう。その本来の意味は、「私はこのようにしよう」「私はこのようになりたい」という自分の意志であり、それに基づく行為である。神の意志ではなく、自分の内なる力であり、「自分の人生を作るものは自らである」というブッダの人間主義の教えの中心にある重要な考え方である。

 人間の行為は、行おうという意志(思業)に始まり、具体的な動作(思已業)がそれに続き、何らかの結果をもたらすことによって完成する。さらにその動作は、身体によるもの(身業)・言葉によるもの(語業)・心によるもの(意業)に分類できる。仏教も原始経典以来、業を意志と動作に分ける分類と、身体・言葉・心に分ける分類の2種類の分け方を用いてきた。

 しかし、アビダルマの時代になると、部派によって業の解釈が異なってくる。たとえば、説一切有部は意志のはたらきを意業とし、外に現れた言動を身業と語業とする。これに対して経量部とパーリ・アビダンマでは、業の本体はすべて意志(思)とされ、現実の言動は表とされ、業ではないという特異な説が説かれる。

 その意図は何か。上述のように、業の本体は思(意志)とされる。自らの思(意志)の善悪を知りうるのは自らのみである。他人は外から観察して、他人の業の善悪を推量しているにすぎない。人は時として自らの業の善悪をごまかすことがある。しかし他人はだませても、自らをだますことはできない。業の行為者のみが自らの思の善悪を、すなわち業の善悪を知っている。身・語・意の三業の本体を思とする意味がここにある。

 善い行為をすると楽の結果が起こり、悪い行為をすると苦の結果が起こる「善因楽果・悪因苦果」は、日常生活における倫理道徳の問題ばかりでなく、輪廻や解脱のための修行に関わる大きな問題である。したがって、意志と行為の問題は、仏教徒にとって常に精査されるべき重要事であり、部派ごとの差が生まれることになった。

宿業

 本書の課題の一つとして「宿業」について仏教の業論の立場から解明が試みられている。

 人は生まれながら様々な差を背負っている。健康な人、病弱な人、明敏な人、愚昧な人、裕福な家に生まれる人、貧乏な家に生まれる人などと。人はその差によって悩み、苦しんでいる。健康な人には不満はないであろうが、病弱な人には思うところが様々にあるであろう。「なぜ私だけ病弱なのか、何が悪いのか、何かのたたりか、それとも運命であり、諦めるしかないのか」などと。

 しかしどれほど現実を嘆いても、いくら他人をうらやんでも、たとえ親をうらんでも、あるいは神仏にすがっても、今の私の状態は変わることはない。

 そのような状態の中ではっきりとわかっていることがひとつある。「それでも人は生きて行かなくてはならない」。

 「宿業」は生きる覚悟をうながす。「今の私のすがたは私の過去世の業の結果だ」と思って、今ある自分をすべて自分で引き受けよ。他人のせいだと思うな。他人のせいだと思うと、人は迷い、苦悩は深まるばかりだ。自分のせいだと思え。自分の過去世の業だと思え、と「宿業」説は説く。

 ここには理論はない。また理論で解決できる問題でもない。理論はなくても、人は生きねばならない。「今の自分を自分で引き受けよ。引き受けたからには、過去を問わず、ひたすら未来に向かって生きよ」。これが宿業の教えである。

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