揺らぐ時代に「共感」という外交政策 『国際文化交流を実践する』
記事:白水社
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国際交流基金(The Japan Foundation)紹介動画
外交政策では、米国発の「ソフト・パワー」、「パブリック・ディプロマシー」概念が、今世紀初頭、日本外交の現場に取り入れられる中で、国際文化交流に関しても両概念と関連付けて議論されるようになってきた。
米国の国際政治学者ジョセフ・ナイは、他国を軍事力や経済力といった「ハード・パワー」で強引に従わせるのではなく、自らの魅力によって味方につける力を「ソフト・パワー」と呼び、その源泉となるのは、「文化、価値観、外交政策」であるとした。ナイは、従来国際政治学、外交論において政治、軍事、経済に比して重要視されてこなかった文化に光を当て、「ハード・パワー」と「ソフト・パワー」を組み合わせて戦略的に目的を達成する「スマート・パワー」による米国の外交強化を論じた。
「パブリック・ディプロマシー(PD)」とは、自国の存在感、イメージ、理解を高めるために、相手国政府ではなく、市民に対して直接働きかけていく外交である。米国外交において、国際文化交流は政策広報や国際放送と並んで、PDの主たる手段の一つと位置付けられてきた。冷戦終結によりPDを縮小させていた米国が、再びその強化に乗り出すきっかけとなったのは、2001年同時多発テロ事件とその後の「テロとの戦い」である。中東イスラム諸国の市民に対して、アフガニスタン戦争、イラク戦争の大義を訴え、彼らの心をつかむ手段として米国政府はPD関連予算を大幅に拡充した。
日本においても、国際文化交流を外交の中に戦略的に位置付けるべきだという声が高まり、2004年外務省機構改革において、海外広報課と文化交流部を統合して「広報文化交流部」(英語名:Public Diplomacy Department)が発足した。これに先立つこと3年前の2001年1月の中央省庁等改革において、国際文化交流に関する外務省と文化庁の役割分担が明確化され、「文化庁が国際文化交流でより大きな働きを担う」とされる一方で、外務省及びJFが実施する国際文化交流は「外交に資するものに特化する」こととなり、「国際交流基金が行う文化交流は外交政策の一環」と位置付けられた。
米国のPD強化と並んで、日本外交が文化交流の戦略的実施に向けた改革を進める、もう一つの契機となったのが、21世紀に入ってからの中国、韓国のPD強化である。中国は1999年に江沢民国家主席が、中国に関する国際的なイメージ改善の必要性に言及し、従来の対外広報・宣伝のやり方を見直し、インターネットによる広報強化、対外広報と国際文化交流の一体化、文化産業の対外競争力強化を打ち出した。新しい対外発信の柱となったのが、大型文化事業の開催と中国語普及機関「孔子学院」の増設である。首脳合意に基づく中仏文化交流年はパリにおける「中国ブーム」を演出し、この成功に引き続き欧米、アジア、中東で中国文化の大型イベントが実施された。2004年に韓国ソウルに初めて開設された「孔子学院」は、またたく間に世界中に拡大し、2010年には96カ国、332校と拡張された。
1997年金融危機を経験した韓国は、文化産業を国家基盤産業として育成することを目指し、1999年に文化産業振興基本法を制定し、文化産業振興基金、韓国文化コンテンツ振興院の設置などの政策を打ち出した。日本における「冬のソナタ」ブームの到来など、その成果は2000年代初めに早くも現れ、以後「韓流」、「K-POP」が韓国の対外イメージ向上に大きな貢献を果たし、現在に至っている。
このような中国、韓国の世界進出に伴って、日本の文化交流の存在感が相対的に低下しているという認識が高まり、財政状況が厳しい中で、限られた予算でいかに文化交流を実施するか、という問題意識が、文化交流と広報の一体的な実施という方向へと、日本のPDを向かわせた。報道対応、広報、文化交流をより一体的、戦略的に実施するために、外務省は、2012年機構改革において広報文化交流部と外務報道官組織を統合している。文化交流と政策広報の一体化が、さらに進んだのである。
日本のパブリック・ディプロマシーは日本にとって有用なのか。その試金石となったのが、2011年の東日本大震災である。地震、津波、原発事故という、いまだかつて人類が経験したことのない三重の大災害に際し、日本は原発事故対応に関する対外説明、情報発信が求められ、また風評被害対策に取り組まなければならなかった。JFも危機の渦中にあって、震災で高まった日本への関心を深い日本理解につなげ、日本の被災体験を国際社会に活かし、日本の復興、再生、活力回復に役立てるなどの観点から、大小200を超える震災関連文化交流事業を2011年に実施した。
「国際文化交流の戦略化」は、公的資金を財源とする国際文化交流機関にとって、政治権力との距離の取り方の判断を難しくさせている。JFが実施する国際文化交流は外交政策の一環と位置付けられているが、文化を扱う以上、必然的に文化政策という性格も帯びることになる。現代の文化政策において重要な原則とされるのが、「アームズ・レングス」である。学術・文化芸術振興に、公権力が過度に関与することを避けるため、学術・文化芸術と政府・行政機関との間に一定の距離を保つことを意味する。
草剏期のJFに強い影響を及ぼした松本重治国際文化会館理事長は、英国の事例を引き合いに出しながら、国際文化交流が成果を上げるには、「現実政治にタッチしないこと」、「目前の国益などを眼中に置かないこと」、「監督官庁とは独立した人事制度を持つこと」と述べている。70〜80年代には英国の「アームズ・レングス」原則が日本の目指すべきモデルとして外交関係者のあいだで強く認識されていた。
国際文化交流の戦略化によって、政府・行政の文化交流への距離の取り方に変化が生じ、アームズ・レングス原則に抵触するような事例が発生しやすい状況が生まれている。
「戦略化」する国際文化交流を、国際関係論の視点から考えてみたい。国際関係論では、世界をどう見るかという観点から、現実主義と理想主義という二つのアプローチが存在する。現実主義の見方では、世界は無政府状態にあり、その中で国家は様々な手段を通じて自国の国益を拡張させ自国の安全を高めようとする。他方、理想主義は人権、民主主義、法の支配はじめリベラルな価値に基づいて現在の国際秩序は成立しており、諸国の国際協調によって世界の安全は保障され、戦争を防ぐことができると考える。
現実主義の理論は国際文化交流を、自国の立場を主張し、自国への支持者を獲得することによって自国の国益を増進するための手段の一つと捉え、理想主義は国際文化交流それ自体を目的と捉え、各国が相互理解を深め、相互の信頼を高めることが国際協調を増進させ、国際平和を強化すると考えてきた。現実の国際文化交流政策の運用は、現実主義と理想主義両方の微妙なバランスの上に成立している。冒頭で述べた国際協調精神の危機、国際文化交流の危機とは、戦後世界を形成してきた理想主義的価値観の危機とも言える。
しかし、ならば現実主義が理想主義に決定的な勝利を収めたとは言い切れない。現実主義的国際文化交流が、真に自国の国益増進につながっているかと言えば、失敗事例も少なくない。同時多発テロ事件直後、米国政府は広告界の女王と呼ばれたシャルロット・ビアーズをパブリック・ディプロマシー担当国務次官として招き入れ、対中東イスラム諸国向けパブリック・ディプロマシーを増強し、米国が始めた「対テロ戦争」への理解を獲得しようとした。その結果ははかばかしいものではなく、中東地域の反米感情は消えず、ビアーズは2年も経たずに辞任した。
世界的に注目を集める中国のパブリック・ディプロマシーに関しても、自国内での人権問題や情報発信の透明性・民主性を疑問視し、警戒する見方が欧米で強まり、米国では近年、孔子学院を閉鎖する大学が相次いでいる。中国型パブリック・ディプロマシーが成功モデルとは言い難い。
国際文化交流を現場で担うJF職員が果たしうるのは、外交政策として行われる日本の文化交流が、極端な現実主義、あるいは極端な理想主義に傾かないよう、バランスを取る調整の役割、と考える。
冷戦時代に米国のパブリック・ディプロマシーを支えた国際交流庁(USIA)、国際文化交流を現場で担ってきた英国ブリティッシュ・カウンシル、ドイツのゲーテ・インスティトゥート職員たちが異口同音に述べるのは、働きかける対象の尊厳を無視した、自分からの一方的な情報や価値の発信は反発を招き逆効果であるということだ。国際文化交流の実務者たちは、重要なのは対話であり相互理解である、と強調する。JFに35年間勤務した筆者も同じ意見を有している。狭い意味での国益に拘泥していると、より大きな文脈での国益、長期的な国益を損なってしまうことを、彼らは長年の交流現場の経験から学んできたのである。他方、海外の訴求対象のみに心を砕き、理想主義に傾きすぎると、「国益軽視」、「税金の無駄遣い」という批判が自国内から湧きおこり、国内の支持者を失ってしまう。
『歴史の終わり』の著者にして、政治思想家のフランシス・フクヤマが近著『アイデンティティ──尊厳の欲求と憤りの政治』(山田文訳、朝日新聞出版)で、興味深い指摘を行っている。「自尊心は、他者から尊敬されることで生まれるものだから、人間は自ずと承認を求める」とフクヤマは述べ、社会や国家も同様であるという。尊厳の承認を渇望する心の動きである「テューモス(気概、自尊心)」は、ほかと平等な存在として尊敬されたいという「アイソサミア(対等願望)」、あるいはほかより優れた存在と認められたいという「メガロサミア(優越願望)」を意味している。世界各地で発生している排外的ナショナリズムや宗教過激主義の基層にあるのは満たされぬ承認要求であり、これが世界に混迷をもたらしている、とフクヤマは説く。
「テューモス」に駆り立てられて国家は自国の言語、文化、価値を対外的に発信しようとする。相互理解は、相手の尊厳を認め、承認要求を満たしてあげることによって、「テューモス」を鎮める行為であるといえよう。
10年ほど前、拙著『テロと救済の原理主義』(新潮選書)において、世界が直面するテロや暴力の根本に「富の不平等」と並んで「誇りの不平等」があると書いた。この「誇りの不平等」が改善されず、むしろ悪化している今日の状況をフクヤマは「テューモス」というギリシア哲学用語を用いて絵解きしてみせた。
傷ついた人々の心を癒し、「誇りの不平等」を是正していく役割を国際文化交流は果たし得ると書いたが、JFの職員は理想主義と現実主義のバランスを取りつつ、日本のテューモス、諸国のテューモスを鎮めるべく、調整者、仲介者の役割を果たしていくことが求められる。
本書で語られている国際文化交流最前線の動き(災害復興、文化の多様性保全、域内相互理解への貢献など)は、「誇りの不平等」を正し、日本そして諸外国の承認要求を満たし、相互承認の調整、仲介の役割を果たそうとする模索の具体的な事例である。
【国際交流基金編『国際文化交流を実践する』「国際文化交流とは? その果たしうる役割とは?」(小川忠)より】
【TEASER】STAGE BEYOND BORDERS -Selection of Japanese Performances- Presented by the Japan Foundation