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人が神になるという悪夢 ――人間至上主義の陥穽 『危機の時代の宗教論』

記事:春秋社

デューラー「黙示録」連作より (部分)。出典:Wikimedia Commons
デューラー「黙示録」連作より (部分)。出典:Wikimedia Commons

危機の時代

 コロナ・パンデミックが世界を席巻している。すでに1億人以上が感染し、250万人以上が死亡したという。前例のない速さで開発されたワクチンが決め手になるかとも思われたが、変異株の登場でそれも予断を許さなくなってきた。

 しかしコロナ禍で露呈した真の問題は犠牲者の数ではない。感染がここまで世界規模で拡大したことには経済のグローバル化が大きく寄与しているように、マスクの生産を中国に依存していたがゆえのマスク不足、EUがワクチンの輸出を制限するなどの地域エゴ・国家エゴは、自由貿易や国際分業の危うさをあぶりだした。最初のウイルスの大規模感染が中国であったというだけで、イタリアではアジア人が音楽院を締めだされ、ドイツでは日本人がサッカー・スタジアムから追いだされ、パリでは日本人が塩酸をかけられるという事件が起こり、アメリカではヘイトクライムとおぼしきアジア系への暴力事件が続発して、バイデン大統領が声明を出すまでに及んだ。これらの事実は、人権先進国などといわる欧米各国も、薄皮一枚下には差別感情が渦巻き、何かあれば、暴力をともなって、表面へ噴きだしてきかねないことを如実に示している。

 あるいは、今年10年目を迎えた東日本大震災を思い起こしていただいてもよい。地震大国といわれ、地震災害には万全に備えてきたはずの日本が、これほど無力に津波に蹂躙され、水の暴力が大地を覆い尽くしていく光景に茫然自失した人も多かったろう。福島第一原子力発電所の原子炉がメルトダウンし、水蒸気爆発で建屋が吹き飛んで無惨な姿をさらしたときには、あれほど安全性が喧伝されていたのは何だったのかと唖然とした人もいただろう。

 何が起こっているのか。

 近代とはまさに科学技術と資本主義の時代であり、人間主義の時代であった。しかし現代において、この近代的合理性がつくりだした国際経済や政治システムが深刻な危機に陥り、近代の価値そのものである人権・平等・自由の土台が揺らいでいるのである。

カール・バルトに倣いて

 こうした現代の危機に対して本書の著者・富岡幸一郎氏が示そうとするのは、宗教の可能性である。とはいえ、本書は宗教礼賛ではない。また、近代文明への批判を軽々しく西洋文明の根幹たるキリスト教や一神教批判に結びつけ、ひるがえって東洋的な宗教、たとえば仏教や多神教、あるいは日本的なアニミズムを称揚するといった 〈平板な宗教論〉を語るのでもない。氏が人類の歴史と宗教の微妙な絡みあいを解きほぐし、人間の本質を見つめなおす新たな宗教論を求めて範とするのは、近代神学を一新し、20世紀最大のプロテスタント神学者と呼ばれたカール・バルトである。

 カール・バルトの時代もまさに危機であった。第一次世界大戦においてドイツ帝国の開戦の詔勅を起草したのは神学者ハルナックだといわれるが、神学者を含むドイツを代表する錚々たる知識人がドイツ皇帝と戦争を支持したことは、バルトに大きな衝撃を与えたという。そして戦争が結果した悲惨な敗戦と混乱。そのなかからバルトが世に問うたのが『ローマ書講解』であった。富岡氏は『ローマ書講解』を踏まえて次のように言う。

〈いかなる宗教批判も、最終的には宗教的である他ないという事実なのである。……人間は人間であることにおいて、宗教的人間たらざるをえない。宗教とは、人間の欲望の最高の頂点であり、十九世紀の神学者が考えたように、平和をもたらし救済を実現するものではない〉(p. 18)

 衝撃的な言葉である。ただし、ここでいう「宗教」とは、キリスト教や仏教など「宗教と呼ばれているもの」だけを指すのではない。無神論もまた人間の本質に根ざした宗教的欲望によって宗教になる。共産主義もそうであり、ナチズムもそうだ。

〈神を信仰しようが、無神論であろうが、宗教は人間的可能性の「最後にして最高」の欲望としてあらわれ、それは最大の可能性であるがために、また最悪のものとなる〉(p. 20)

 そして、人間の宗教的欲望が人間中心主義と結びつくとき、事態は救いがたいものとなる。

〈バルト自身……ナチズムの暴風のなかで、神学的な抗争を開始するが、……それはナチズムこそが近代主義(人間中心主義)が生み出した最悪の疑似宗教であることを最初から看破していたからである〉(p. 20)

 富岡氏は歴史学者ハラリの『ホモ・デウス』を引用しつつ言う。人間中心主義においては〈「人間」が「宇宙に意味を与えるのが当然」〉で、〈人間の自由意志こそが最高の権威〉となるのであり(pp. 22-23)、それは人間が神になることにほかならない、と。そのとき人間の自由意志の暴走を掣肘するものは何もなくなってしまう。

 ナチズムや共産主義にとどまらない。現代の危機は、それが科学の暴走にせよ、金融資本主義の暴走にせよ、科学や自由市場が一種の宗教と化していることと表裏一体だ。だが同時に、そのカウンターと考えられている環境運動や社会運動も、容易に宗教化し暴走する危険性をはらむ。

 富岡氏がキリスト教の予定論に言及し、あるいは、近代科学が排除してきた目的論に共感を示すのは、人間の自由意志の暴走に歯止めをかけるために、〈人間の意志こそ最高の権威〉という近代主義に対抗できる〈人間とは決定的に異質な権威〉の必要を痛感するからである。

 富岡氏は、バルトが聖書を〈歴史でも、道徳でも、宗教でもない……「人間についての神の正しい思想」を開示した言葉として受け取り直した〉ことに倣うことで、現代の危機を克服するための一筋の光を見いだす。しかしバルト神学がなお近代の地平にあることを忘れるわけにもいかない。

〈バルト神学は、かくして近代の地平にあって、その予定論を刷新し、現代世界の危機の根源を提示してみせた。しかし、ハラリが預言するように「人間至上主義」は、さらなる段階に突入している。新型コロナウイルスの災厄はそれを加速するだろう。……このような人類史的にも危機の情況にあって、再度問わなければならない。宗教者は今日の世界にあって何を語ることができるのか〉(pp. 28-30)

 100年前の危機の時代にカール・バルトが現れて人間中心の神学を神中心の神学に刷新したように、現代の危機に対峙しうる新たな宗教論の登場を求めて、富岡氏は、荒野に呼ばわる洗礼者ヨハネのごとく、いま宗教者に呼びかけるのである。

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