黙示思想と「神の国」──イエスがユダヤ教から受け継いだもの 『終末論の系譜』より
記事:筑摩書房
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イエスは「神の国」を宣べ伝えるに当たって、一体どのような伝承に依拠したのだろうか。「神の国」は全くのイエスの独創、文字どおり「無からの創造」であったのか。もちろん、「神の国」の究極的な意味あるいは本質については、イエスが初めてそれを「見つけた」ということが、あり得るに違いない。その意味あるいは本質を現代人にも分かる言葉で取り出すことは重要な課題である。しかし、イエスがそれを同時代人にどのような言葉とイメージで語っていったかは、それとは区別して考えられるべき重要な問いである。そしてイエスの使うそのイメージの多くが初期ユダヤ教の中の特定の系譜、すなわち古代末期のユダヤ教研究の大御所P.シェーファーの言う「上昇の黙示録」の系譜に見られるイメージ群と重なっているのである。
研究上「ユダヤ教黙示思想」あるいは「ユダヤ教黙示文学」と総称される終末論は一義的な定義が実にむずかしい。「ユダヤ教黙示文学」と聞いて、多少とも事情に通じた人なら、たとえば『エチオピア語エノク書』、『第四エズラ記』(『エズラ記〈ラテン語〉』)、『シリア語バルク黙示録』などを想起するであろう。内容としては、主人公が夢や幻の中で、人類と宇宙万物の成り立ちと歴史、堕落と現状、来るべき審判と天地万物の更新の秘密を啓示されることを考えるのが普通であろう。たしかに、このタイプの終末論は歴然と存在する。
しかし、今挙げたようなキーワードでは、一連の文書が取り残されてしまう。もちろん、それらの文書でも主人公が夢や幻の中で啓示を与えられる点は変わらない。だからこそ、黙示(つまり啓示)文学に括られるわけである。すなわち、主人公は地上から天上へと引き上げられていく中で啓示を与えられる。ただしその主たる内容は、人類と宇宙の歴史と行方であるよりも、むしろ天上の神殿あるいは王宮で玉座に座す至高神と、その至高神を取り囲む天的な存在(とりわけ天使)たちの姿を垣間見ることである。
P.シェーファーの最近の研究は、このような特徴を具えた一連の文書を「上昇の黙示録」と呼んでいる。その意図は明らかに、宇宙史の終末論を示す黙示文書から区別することにある。宇宙史の終末論にとっては、当然ながら、時間軸(歴史の軸)がどうしても不可欠である。それに対して、「上昇の黙示録」では空間軸(垂直軸)での移動が決定的に重要となる。加えて、しばしば主人公はその上昇によって、天使への変容を体験することもある。この意味で、シェーファーは「ユダヤ教神秘主義」についても語って、その起源が「上昇の黙示録」にあるとするのである。
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このように、イエスが「神の国」を宣べ伝える中で繰り広げていったイメージの多くは、とりわけ初期ユダヤ教の中の「上昇の黙示録」の系譜に見られるイメージ群と重なっている。そこで、正典四福音書に頻出する「人の子」という語句から、イエスのイメージ・ネットワークがどのようなものかを見てみよう。
正典四福音書では、「人の子」という語句は合計103回登場する。研究上はすでによく知られていることであるが、その「人の子」の指示対象は、
(1)終末時の宇宙規模の「さばき」のために到来する審判者、
(2)地上を歩みながら宣教の業わざを遂行中のイエス、
(3)自分に十字架上の刑死が迫っていることを予告するイエス、
の三つにわたっている。共観福音書の著者たちは揃って、103箇所すべての「人の子」が常に物語の主人公イエスと同じものだと考えている。彼らにはこの点について、微塵の疑いもない。この点では、ヨハネ福音書についても同様である。彼らにとって、「人の子」は自分たちの救い主イエス・キリストを言い表すための重要なタイトル(キリスト論的尊称)の一つなのである。そしてそのことは福音書の著者たちが始めたことというよりも、すでに彼らに先立って伝承を担ったパレスチナのキリスト教徒たちの間で始まっていたものと思われる。
しかし、そのことを理由に、すべての箇所の「人の子」を一様にイエスの死後の原始キリスト教会が創造したものと見做すことはできない。たしかに(2)と(3)については、そう見做すことができても、(1)については、生前のイエス自身の発言にまで遡る可能性が否定できない。これが研究上の定説である。
(1)に属する箇所の中でも、伝承史的にも古い形を保持していて、イエス自身の発言にまで遡る可能性が考えられるのは、まずマルコ福音書8章38節である。そこには、「この不貞で罪深い世代でわたしとわたしの言葉を恥じる者を、人の子も彼の父の栄光のうちに聖なる天使たちと来る時に、恥じるだろう」とある。この文章では、語り手の「わたし」が「人の子」と明確に区別されている。語り手の「わたし」は、現に今自分が発している宣教の言葉に対して、誰であれ個々の人間がどのような態度を取るのか、それを受け入れるのか、それとも「恥じる」のか、その決断がそのまま、やがて「人の子」が来る時にその者に下される運命を決するという意見である。これは尋常ならざる主権意識、自分が全権を委託されているという意識と言う他はない。ルカ福音書12章8節からも、ほぼ同じことが読み取られる。
生前のイエスはそのような意識で、自分とは異なる「人の子」の到来を待望し得ただろうか。私が拙著『イエスという経験』で提示したのは、マルコ福音書8章38節の「人の子」をダニエル書7章13節の「人の子のような者」との類比で集合的人格の意味で読解することである。ダニエル書のこの文言は後続の7章22、25、27節では「いと高き者〔神〕の聖者ら」あるいは「いと高き方の聖なる民」と同定されている。この表現はダニエル書を生み出した者たちの自己呼称である。つまり、「人の子のような者」とは、明らかに集合的人格なのである。イエスはおそらくこのダニエル書の用語法を意識している。
マルコ福音書8章38節の「人の子」も同じ集合的人格として解釈すベきである。その理由はこの言葉それ自体の中にある。なぜなら、「人の子」は単独で到来するのではなく、「聖なる天使たちと共に」やって来るからである! ここで言う「人の子」とはアブラハム、イサク、ヤコブを始めとして天上の祝宴の席に着いている者たち、つまり端的に天上の「神の国」の総称である。その者たちは「復活して天使のようになっている」者たちであるから、「人の子」と「天使たち」は二詞一意の同義語と言ってもよい。「人の子」と共にやって来る「天使たち」とは、すでに復活して天上の祝宴の座についている族長たちのことであっても一向に構わない。というよりも、イエスの言う「人の子」とは、天上の祝宴に集っている人々のことだと言う方がよいであろう。
マルコ福音書8章38節でもう一つ注目しておきたいのは、「人の子」は天使たちを伴って、天から地へ下降して来臨するとイメージされていることである。現代のイエス研究は、国内と欧米の別を問わず、「神の国」の接近の時間的な側面(マルコ福音書1章15節「今この時は満ちている」)ばかりに一面的にこだわってきたように思われる。しかし、イエスのイメージの空間的な力動性を無視してはならない。「神の国」はすでに天上の祝宴として実現していて、今やそこから地上に向って下降し始めているのである。