今こそ知りたい「共存と協働」の歴史 『イスラーム文明とは何か』
記事:明石書店
記事:明石書店
近年では、ヨーロッパが中世の「暗黒」時代に長らく停滞した間、文明の最先端を歩んでいたのはイスラーム世界であったとする史観がみられるようになった。ただしそれと表裏一体に、現代の我々が享受する先進科学技術文明はルネサンス以降のヨーロッパ文明が生み出したものであり、イスラーム文明はそれに取って代わられた過去の文明だという先入観もまた、いまだ根強く残っている。イスラームという宗教に対する理解不足や偏見も、それを助長している。
そして、西欧社会が忘れられていた古代ギリシア・ローマ文明をルネサンスによって「復興」させ、近現代科学文明へと発展していくという固定観念もまた、欧米のみならず、我が国でもかなり強固に信じられている。
しかし、西欧で「忘れられていた」という古典ギリシア・ローマ文明はどこに保存されていたのか? 文字を持たなかった文明の詳細が明らかでないように、もしこの間に古典そのものやその解釈・研究の蓄積が散逸していたとすれば、ルネサンスも生じ得なかったはずだ。
西暦529年、キリスト教を国教とするビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇帝ユスティニアヌスは、異教である多神教時代の産物であるとして、ほとんど全てのギリシア語文献の廃棄と学者たちの追放を命じた。この政策により貴重なギリシアの文化遺産は、歴史の表舞台から一旦は姿を消した。
しかし、幸いなことにイスラーム時代に入ると、アッバース朝第7代カリフ、マアムーン(在位813~833)が都バグダードに「知恵の館」を建設し、密かに保護されていた古代ギリシアの学問的写本を収集して、その全てをアラビア語に翻訳することを命じた。半ば廃れていたギリシア科学のほぼ全容が、アラビア語で蘇ったのである。その後、アラビア語訳のギリシア科学の研究によって新しい学問が大いに発達した。
ギリシア文明は多神教時代に発展したものだが、当時のイスラーム支配者たちは、人類の利益となるものであれば何でも受け入れるという、寛容で現実的な姿勢を持っていた。このことが、ギリシア文明という外来の文明を柔軟に受容して、さらに発展させる意欲につながった。
アッバース朝期(750~1517)以降、各地に展開したイスラーム小王朝においても、統治者たちは支配地域に「科学アカデミー、学校、天文台、図書館」を設立して、学問を奨励した。また金曜日の集団礼拝が可能な大規模モスク「ジャーミア」には、そのほとんどすべてに付属図書館が設置され、高等学問所「マドラサ」が併設されていた。
このように外来のギリシア文明の柔軟な受容に始まったイスラーム文明は、当時の世界で最も高い知的完成度をもつに至った。イスラーム世界で展開したために「イスラーム文明」と呼ぶが、この当時のイスラーム世界とは、イベリア半島など現在の西ヨーロッパの一部も含む地理的広がりを持っていたことに留意されたい。
8世紀以降、イスラーム勢力がイベリア半島(アラビア語ではアンダルスと呼ばれた)へ進出したのに伴って、アンダルス地方はトレドを中心に11世紀以降、イスラーム文化の西方での拠点としての機能を担い、アラビア語文献がラテン語に翻訳され、中世ヨーロッパの文化に大きな影響を与えた。
アンダルスに限らず、イスラーム世界では1000年あまりにわたって、ムスリム(イスラーム教徒)だけでなく、キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒たちが、人種や宗教の枠を越えて、ともに協力して学問に関わった。イスラーム文明とはこのような融合文明であった。
イスラーム文明は、堅苦しい形式主義で満たされていたヨーロッパのキリスト教社会にも後述のように影響と開放感を与え、遂にはルネサンスが起こる契機ともなったのである。
ここで高名な学者を3人ほど紹介しよう。
イブン・スィーナー (ラテン名アヴィセンナ、980~1037)は、イスラーム史を通じて最高の学者と言われる。その学問は医学・哲学・神学・数学・天文学に精通し、著作は100を超え、「学問の長老」と称された。特に『医学典範』はアラビア医学の集大成で、ラテン語に翻訳され、12~18世紀にかけて西ヨーロッパの大学の医学部や医科大学で権威あるテキストとして重用された。また、彼の哲学はラテン・アヴィセンナ主義として広くヨーロッパで学ばれ、パリ大学などでも講義された。
イブン・ルシュド (ラテン名アヴェロエス、1126~1198)は特にアリストテレス哲学の研究家・注釈家として有名で、ラテン・アヴェロエス主義という呼称にみられるように、中世ヨーロッパにおけるアリストテレス哲学の研究と、それに基づくスコラ哲学の発展に大きな影響を与え、当初は熱狂的にパリ大学などで学ばれた。やがて1277年にローマ・カトリック教会がラテン・アヴェロエス主義を異端の学問であるとして禁止し、教会の意図に従ってキリスト教神学者トマス・アクィナスが反論のために『対異教徒大全』や『神学大全』を著したことはよく知られている。しかし、トマスの死後、トマス自身も異端として弾劾されるという皮肉な事態が起こった。
光学・数学・天文学の分野で活躍したイブン・ハイサム (ラテン名アル=ハーゼン、965頃~1041頃)は、2015年に国連が制定した「光と光技術の国際年IYL2015」の催しで一時的に再評価された。彼は大気圏の厚みや万有引力の原理についても発見しており、これらの業績はニュートンより600年も前のことである。本来であればニュートンと同等に世界中で認められるべき大学者なのである。また、確かな知識を得るために実験器具を用いて、世界で初めて光が直進することを証明したが、この業績は1000年後のアインシュタインの業績と並び称されるべきであろう。
イスラーム世界は16世紀以降の政治的混乱や、それに乗じたヨーロッパ植民地主義の搾取や抑圧のもとで、8世紀から展開した華々しい文明を忘れてしまう事態に陥った。しかし、イスラーム世界の功績は、確実に今日の科学技術の発展に生かされている。西洋キリスト教世界が、どのようにイスラーム文明の功績を否定しようとしても、イスラーム文明が近代科学の礎となり、人類の進歩に貢献したという歴史的事実が消えることはない。
イベリア半島にもたらされたイスラーム文明が、アラビア語からラテン語に翻訳されて、ピレネー山脈を越えヨーロッパ中央へ伝播したのは、なによりも、啓明的な宗教指導者たちの存在と修道院を中心とする学僧の集団による強烈な向学心、それを下支えしたユダヤ人たちの尽力によるものである。特にユダヤ人は、イスラーム支配下でアラビア語を習得した者が多く、前述したように、アッバース朝期の「知恵の館」でムスリム、キリスト教徒、ゾロアスター教徒などとともに、ギリシア語文献のアラビア語への翻訳事業に貢献した。また、イベリア半島においても、キリスト教徒の学者を助け、アラビア語文献をラテン語に翻訳する困難な事業に従事したのである。
『イスラーム文明とは何か』では、この文明がヨーロッパにルネサンスの種を蒔き、近代・現代科学の礎となったことをわかりやすく解説し、その全体像を概観できるようにした。イスラーム文明は決して過去の文明ではなく、現在の私たちの生活の中にも生きている、真の意味でのグローバルな文明であった。しかし、21世紀の現在、無視され、誤解され、挙句の果てに故意に消された文明である。
イスラーム文明の歴史から、今日の世界で最も不足している「人類の平和的な共存と協働」の重要性を教えられる。