小笠原の歴史文化と生活をめぐる――複雑な歴史を有する島、小笠原諸島
記事:朝倉書店
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村営バスの扇浦線に乗って(村営バスの説明は本書7.1節を参照)、終点小港海岸で下車。海岸林を抜けると、白砂がすばらしい浜の景色が目に飛び込みます。迫力ある枕状溶岩の露頭を間近に観察でき(写真1)、季節にはカツオドリの海中ダイブも見られます。中山峠から南島を望むと、空と海の絶景。なお、遊歩道の入り口には、利用状況調査のための小石の用意と、靴底の有害生物を取り除くためのブラシ・消毒液があります(写真2)。
扇浦は、昔の人が入江の円弧を扇に見立ててそうよび、また扇のかなめにあたるところから、沖の小島を要岩(かなめいわ)と名付けました。山側が小笠原神社で、境内には幕末に八丈島からの入植を記念した新治(にいばり)の碑、および明治の政治家大久保利通の文章を刻んだ小笠原開拓碑などの石造記念物があります。いずれも、東京都指定の有形文化財です。
バス通りから海岸に降りると境浦です。境浦といえば、シュノーケリングポイントとして有名な濱江丸(ひんこうまる)という沈没船があります(写真3)。第二次世界大戦中の1944年6月にサイパン島北方で米軍機動部隊の攻撃により舵を破損し、漂流しました。7月にようやく父島近海にたどり着いたところ、再度、米軍機の魚雷攻撃を受け、座礁しました。1960年のチリ沖地震の津波で、現在地に運ばれたともいわれます。
この界隈の浜辺の崖下には、太平洋戦争末期の特攻兵器「震洋」艇の格納庫が開口していて、中に入ると錆びたレールやフックを見ることができます。流木で足場が悪いので、懐中電灯をお忘れなく。
二見港岸壁の近くにトンネルが見えますが、このトンネルを東に抜けると清瀬地区です。幕末に来航したペリー提督が初代入植者のリーダーだったナサニエル・セーボレーから石炭備蓄基地用に50ドルで購入した土地がここです。
海側には小笠原水産センターがあります。戸外にはアカバ(アカハタ)の水槽があります。よく馴れていて、備え付けの歯ブラシで遊んでくれます。
清瀬川を渡り、海沿いを歩くとそこは、とびうお桟橋。日没後、シロワニやネムリブカなどのサメや巨大なエイたちに逢える素敵なスポットです。さらにその東側では、太平洋文化を特徴づけるアウトリガー・カヌーが見られます(写真4)。太平洋の海洋民は、外洋でも転覆しにくいこのタイプのカヌーで、星を見ながら島々を航海しました。BITC‒生協のシンボルマークにもなっています。湾の対岸、オレンジ色の屋根が、水産センターと名前がよく似た小笠原海洋センターです。島民は「カメセンター」の愛称でよんでいます。展示室を抜けると、アオウミガメを主体とするカメ飼養場があり、餌やり体験もできます。裏手に古い飛行機のプロペラなどもあります。このあたりが製氷海岸とよばれているのは、戦前ここに日本水産(現・ニッスイ)の製氷工場があった名残りです。シュノーケリングの機会があれば、急深の斜面にロクセンスズメダイの群舞と、大規模なエダサンゴ群落が楽しめるところです。
奥村から夜明道路を少し上がると、右手に海軍墓地、すぐ先の左手に咸臨丸墓地があります。咸臨丸は、幕末に勝海舟や福沢諭吉を乗せて、サンフランシスコまで太平洋を往復したオランダ製の軍艦です。この時、日米修好通商条約の批准書を携えた幕府の使節は、アメリカの軍艦ポーハタン号に乗っていました。咸臨丸はその後1862 年に外国奉行の調査隊を乗せて小笠原に来航し、国際的に所属不明瞭と認識されていたこの島々の日本領有に貢献しました。この墓地には、咸臨丸で来島して落命した役人の墓のほか、難船した船員を供養する漂流者冥福碑(ひょうりゅうしゃめいふくひ)や、明治初期に島の経営にあたった官員の墓所が一か所に寄せてあり、島が経験した様々な歴史に思いを馳せることができます(写真5)。