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“運命としか思えない” 訳者が綴る『シェイクスピア全集』33巻個人全訳の舞台裏とは

記事:筑摩書房

シェイクスピア全集 全33巻セット(ちくま文庫) カバー装画・デザイン=安野光雅
シェイクスピア全集 全33巻セット(ちくま文庫) カバー装画・デザイン=安野光雅

シェイクスピアから逃げまくっていた学生時代

 二〇二〇年十二月十八日、シェイクスピアの喜劇『終わりよければすべてよし』を訳了した。

 振り返れば、『終わりよければ』を先頭に「前へならえ」のかたちでシェイクスピアの戯曲三十七本がずらっと一列に並んでいる。一番遠くに立つのは一九九三年に訳した『間違いの喜劇』だ。各作品それぞれに拙訳を使って上演された様々な舞台が寄り添っている。

 振り返れば二十八年経っている。その歳月の道筋のそこかしこに、私をここまで連れてきてくれたあの人この人の顔が――。

 一九九三年まで、私はシェイクスピアから逃げまくっていた。逃げたつもりでいると、その都度シェイクスピアに通せんぼされた。通せんぼの大半に『夏の夜の夢』がからんでいる。

 最初の逃走と通せんぼ。大学二年で英文科に進んだ私は、英文学専攻なのだから卒業までにシェイクスピアの一本も読んでおかねばと殊勝な気を起こし、シェイクスピア研究会というサークルをのぞいてみた。先輩たちが『ハムレット』を読んでいた。ダメだ、何が何だかまるで分からない、難しすぎる、入部はやーめた。ところがその年の秋だったか、先輩たちに呼び止められ、「来年の新入生歓迎の公演で『夏の夜の夢』を取り上げるから、ボトムをやって」と言われた。結果的にこれをきっかけに俄然芝居というものが面白くなり、三年次では英米の現代劇の講義を取り、この講義で出会ったテネシー・ウィリアムズに夢中になり、卒論のテーマにした。

 指導教官のC.L.コールグローヴ教授が「あの顔この顔」の第一号。二〇一五年に先生がアメリカにお帰りになるまで、私の生き字引になってくださった。ほぼすべての作品の「訳者あとがき」に先生への感謝を記した所以である。

 卒業後もどんな形でもいいから芝居に関わって生きて行きたいと思いつめた私は、当時文学座から分裂して福田恆存氏と芥川比呂志氏が創設した劇団雲の文芸部研究生になった。雲の旗揚げ公演『夏の夜の夢』(!)がとてつもなく面白かったのも動機の一つ。

 だが、演劇の実質的経験が何もない私はたちまち尻尾を巻く。顔を洗って出直してきますと、一浪して東大の大学院に入り、小津次郎先生のもとでシェイクスピアを勉強するつもりだったものの、やはり歯が立たない。修士論文はシェイクスピアから逃げて、一六三二年ごろ活躍した後輩劇作家のジョン・フォードについて書くことにした。ところが、フォードは『哀れ彼女は娼婦』を始め、もろにシェイクスピアの影響を受けている。どの作品を論じようが、その源泉であるシェイクスピアを読み込まねばならない。たとえば『哀れ彼女は娼婦』なら『ロミオとジュリエット』を。

逃げも隠れもできなくなった

 東大闘争があり、結婚して子供が生まれたこともあり、修士課程修了まで四年もかかってしまった。演劇の現場に戻ることは難しくなり、非常勤講師をするかたわら美術評論などの翻訳を始めた(発端は私の妹が編集に携わっていた雑誌)。ハナシを少し端折ると、美術関係の仕事から池田満寿夫さんや朝倉摂さん、有元利夫さんなどとご縁ができ、東京医科歯科大学の専任にもなり、小説の翻訳(ノラ・エフロン作『ハートバーン』など)を手がけるようになる。

 いまの仕事に直結する決定的な出会いは劇書房の笹部博司さんとのそれである。劇書房は今はもうないが、英米の現代劇を翻訳出版し、そのプロデュースもするという野心的な出版社だった。イギリスの女性劇作家キャリル・チャーチルの『クラウド9』は、唯一私から翻訳したいと申し出た戯曲だ。一九八一年夏にニューヨークで見て衝撃を受け、是非日本でも上演を、と思ったのだ。

 これを機に八五年から八八年まで劇書房から出版され、舞台化もされた戯曲は、『エドマンド・キーン』(レイマンド・フィッツサイモンズ作、十八世紀から十九世紀にかけて活躍したシェイクスピア俳優が主人公の一人芝居)、『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(トム・ストッパード作、いわば『ハムレット』を裏返しにした芝居)、『ドレッサー』(ロナルド・ハーウッド作、第二次大戦中のイギリスのある劇団を描く。劇中劇に『リア王』)。そして九二年に訳した『くたばれハムレット』(ポール・ラドニック作、白水社)までは、いまにして思えばシェイクスピア部分訳の時代。シェイクスピアから現代劇へと逃げたはずだったのだが……。

 一九八九年八月、高校生の娘と一緒にイギリスへ行き、ロンドンとストラットフォード・アポン・エイヴォンで観劇三昧の日々を送ったのだが、そのうちの一本がジョン・ケアード演出の瞠目すべき『夏の夜の夢』だった。

 その年、集英社の女性誌『SPUR』が創刊された。演劇評論家の長谷部浩さんは当時まだ同社の編集者で、私にシェイクスピアについて書けとのお達し。「とんでもない、私はシェイクスピアの専門家じゃないし、シェイクスピアの何をどう書いたらいいか分からないから無理」と断った。すると「え、だって松岡さんはそのうちシェイクスピア劇を訳すんでしょう?」「まさか、なに言ってるの!」

 九三年九月、この連載を中心として『すべての季節のシェイクスピア』が筑摩書房から出版された。

松岡さんの『シェイクスピア全集』翻訳ノート 
松岡さんの『シェイクスピア全集』翻訳ノート 

 そして、とうとうシェイクスピアから逃げも隠れもできなくなった。開場したシアターコクーンの初代芸術監督、串田和美さんから『夏の夜の夢』翻訳のオファーが来たのだ。ほぼ同時期に東京グローブ座からも『間違いの喜劇』の訳を依頼される。上演は後者が先だった。九三年十一月から九四年一月まで三週間の在外研修のあいだに『間違いの喜劇』を訳し上げ、この年の三月には串田版『夏・夢』の稽古に入っているのだから、今では考えられないハイペースだ。

蜷川幸雄さん、安野光雅さんとの出会い

 ちょうどこの時期に蜷川幸雄さんも、彼にとって初のシェイクスピア喜劇である『夏・夢』の稽古に入っていた。それまでに私は、劇評を書くようになっており、朝日新聞の演劇記者だった扇田昭彦さんに蜷川さんを紹介されてもいた。

 ある日、蜷川版『夏・夢』のヒポリタ/ティターニア役の白石加代子さんと親しくさせてもらったこともあり、ベニサン・ピットの稽古場を訪ね、私の訳を「よかったら読んで」と蜷川さんに手渡した。

 これが九五年の銀座セゾン劇場での『ハムレット』(真田広之主演)の訳のオファーにつながったと推測する。

 九四年の秋に『ロミオとジュリエット』を訳した私は、ダメ元で筑摩書房にお伺いを立てた。「訳した三本だけでも活字にしていただけないでしょうか?」

 その願いが快諾されたばかりか、いっそ全集にしましょうというちくま文庫からの有難い申し出である。武者ぶるい。

 ここで安野光雅さん登場。先述した妹が仕事でお付き合いがあったこともあり、かねてから憧れていた安野さんに是非とも表紙絵を描いていただきたい。担当編集者からそう伝えてもらうと、時を置かず安野さんご自身から電話があった。講談社のPR誌『本』の表紙に毎月シェイクスピア劇を取り上げることになった、ついてはその個々の戯曲についてエッセイを書いて欲しい、このバーターに応じるならちくま文庫版シェイクスピア全集の表紙を描きましょう。応じなくてどうする!

 『本』の連載が始まる前に、安野さんの運転で「シェイクスピア歌枕の旅・英国編」を、そして九七年五月には「イタリア編」を敢行した。至福の日々だった。毎日笑って過ごした。 

 そして、九六年の八月ごろのある日の夕方、東京グローブ座のアトリウムで蜷川さんにばったり会った。彼は言った、「今度、彩の国さいたま芸術劇場で、僕が芸術監督になってシェイクスピアの全作品を上演することになった。ぜんぶ松岡さんの訳でやるからね」

 運命としか思えない。

蜷川幸雄演出『リチャード二世』パンフレットより
「(ぼくの演出が松岡さんの翻訳をきずつけないことを祈るばかりです)戯曲に負けない、いい演出がしたいです」という蜷川さんの思いが綴られている。
蜷川幸雄演出『リチャード二世』パンフレットより 「(ぼくの演出が松岡さんの翻訳をきずつけないことを祈るばかりです)戯曲に負けない、いい演出がしたいです」という蜷川さんの思いが綴られている。

翻訳ノートや各巻の詳細は特設サイトをご覧ください。

松岡和子個人全訳 シェイクスピア全集特設サイト

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