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養生は健康法? 「私」をいたわり、治める、風穴のような知恵の系譜――今こそ紐解く〈養生〉(上)

記事:春秋社

よりよく生きるための、病への視点/健康への視点

 西平直著『養生の思想』は、「養生」の歴史を巡りながら、養生が持つ現代的な意義を再考させてくれる良書である。

 現代医学では分業化の動きが極まっており、医療者と非医療者という役割だけではなく、医学内での分野や領域が臓器別に細かく分けられている。それぞれの領域の間には溝が大きく深くなっている。だからこそ、分断された領域をつなぐことこそが現代の切実な課題であり、改めて「養生」を考えることは、わたしたちの体や心や命が自然界含めあらゆる領域と密接につながりあっていることを再確認させてくれるものだ。

 現代医療の主流である西洋医学は「病気学」であり、「病」に対する知恵や技術は豊富にある。特に急性期の対応は優れている面も多い。ただ、わたしたちがよりよく生きるためには、「病」だけではなく、「健康」に関しての知恵や技術も必要だ。どんなに過酷な環境でも生き延びていくためには、病だけではなく健康とはどういうことなのかを(体だけではなく心の健康をも)深く知る必要がある。本書により「養生」を巡る知の歴史を読み込むことで、「病」以上に「健康」に対する興味関心こそが、人類が生き延びるために切実な課題であったことがダイレクトに伝わってくる。

対話する未来――西洋医療と養生思想

 西洋医療と養生との考えや対応の違いは、客観と主観という立場や視点の違いと言ってもいいだろう。それは科学と宗教の違いとも似ている。そうした異なる立場は反発しあうものではなく補い合う関係にあるものだ。医療はまさに客観と主観とが重なった領域を扱う最たるものだ。

 養生法のような「主観」を扱う世界と、現代医学のように「客観性」や「エビデンス(客観的な証拠)」を大切に扱う世界が交わるためには、互いの世界を閉じずに開きながら、互いの共通点や普遍性を探っていくことも重要である。「違い」を強調することでそれぞれの立ち位置や独自性を主張することも多かったが、これからの知の在り方は「共通」点を探していくことで「普遍性」へと至る段階に来ているだろう。インターネットでの情報革命などで、叡智が開かれて共有されるものへと移行してきた時代の必然である。本書でも、明治維新以降に漢方医(「養生」において重要な役割を担う)が西洋医にすべて置き換わってしまった背景として、漢方医が師弟関係や秘密主義など狭い世界に閉じられていたばかりに、その閉鎖性が社会で問題となった点も挙げられていた。

 また、本書で「養生」の思想を振り返ることは、わたしたちの「自力」を思い出すきっかけにもなる。日本語の「自ら」は、「みずから」とも呼び、同時に「おのずから」とも呼ぶ。「自力」は「みずから」と「おのずから」のあわいの言葉である。「みずから」できる「養生法」と、「おのずから」備わっている命の働きの「あわい」の場所にこそ、未来の医学の発展はあるはずだからである。

さまざまな「自らを高める」道――稽古・修行・修養との関係は?

 第1章は「養生は健康法か」という章である。養生は広い意味で「自己形成の諸実践(self-cultivation)」でもあるが、「養生」だけではなく、「修行」・「稽古」・「修養」も、共通の部分を多く持ちながら、相違点もある。「修行」が宗教的理想を追求し、「稽古」が武道や芸道における「わざ」の習得を目指し、「修養」が日々の暮らしの中の道徳形成であったのに対して、「養生」はあくまでも「身心の健康」を中心とする自己形成の実践である。

 江戸期にベストセラーになった貝原益軒の『養生訓』では、「いささかよければ事たりぬ」として、養生のためには「いささか」という適度なバランス感覚をこそ求め、「楽」という身心の状態を重視した。「養生」における「いささか」(ほどほど)や「楽」の重視は、「修行」・「稽古」・「修養」が持つ性格とは毛色が異なっていることが分かるだろう。

 また、「修養」は近代日本の中で国家にとっての有用な人材になるための文脈で使われることが多く、そこには有用性や国家への従順さという支配的な時代の要素が見え隠れするが、「養生」においては国家のために役立つかどうかは関係ない。むしろ、天地の気(「気」は古来の養生でよく出てくる言葉だが、エネルギーとして仮に理解してほしい)と循環しようとすることに主眼がある。つまり、目的は人間社会への適応ではなく、自然そのものへ順応して生きていくことと「養生」は関係が深いわけである。

 もちろん、「修行」・「稽古」・「修養」を入り口として身心の養生へと向かう人もいるだろう。性格や好みや体質に応じて、「養生」へ至る道は一本道ではない。ただ、「養生」の歴史で常に警鐘が鳴らされるのは、真剣になりすぎるゆえに頭の支配(「~せねばならない」)が強くなり、「やり過ぎ」て「過剰」になってしまうこと、信仰が深すぎて他者に対して不寛容になることだ。そうした過剰さ・過激さの弊害に対しても、「養生」の知恵が常に注意を怠っていないことは注目すべきことだ。

個性的な「健康」へ

 本書の中で「養生は、一人ひとり異なる個性的な「健康の在り方」を、各自が発見してゆくことである。新しく発明するのではない。既に与えられている自分なりの「健康」を発見し維持してゆくことである」と書かれていることが、養生の本質を捉えている。つまり、個々にとっての養生とは、優劣含めて比較しえない、独立峰のようなものなのである。

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