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いささかに。心地よく。益軒の脱・完璧主義が照らす、私たちの健康とは? ――今こそ紐解く〈養生〉(下)

記事:春秋社

わたしたちの「ブレーキ」術

 『養生の思想』は、古代中国の養生思想を振り返る(第2章・第3章)。そこでは、道家、儒家、医家の立場からあらゆる言葉や文脈の中で「養生」が語られる。時には仙人の不老不死へ至る道としても。

 『呂氏春秋』では身体の気が「流れる」ことを大切にし、「滞る」ことを避ける。身体の気が流れるためには、「節欲」が大切であり、過度の飲食を慎み、色欲を節制し、居住における陰陽の気の不和にも注意を鳴らす。『荘子』では、静かに・清らかに・身体を疲れさせず・精神を浪費しなければ、長生きすると語る。『老子』では、すべてにおいて「少なく」すること(少私寡欲)を説く。

 養生の知恵は、「ブレーキ」操作術にもある。わたしたちは頭により身体をコントロールしがちであり、どうしてもアクセルの踏み方ばかりに気が行ってしまう。安全運転にはブレーキの踏み方こそが大事なように、暴走しやすい頭の活動にいかにしてブレーキをかけるか(頭が興奮しているとそもそも自動ブレーキが作動しなくなる)、そうした止まったり休んだりブレーキをかける技術や考え方こそが古来の養生法の極意でもあることが分かる。

 頭に溢れる「欲望」の総量を少なくすることも(少私寡欲)、頭にブレーキをかけやすくするひとつの知恵だろう。そうして頭で心身を過剰支配してバランスを崩すことは、古来に限られず、現代にも通じる養生の本質であることが本書からも分かる。

 頭へのブレーキのかけ方として、礼儀による養生も触れられている。礼楽では「楽」は内面を修め、「礼」は外形を修めるとされる。つまり、礼儀や儀式による体の所作こそが、頭の過剰支配から脱する養生の知恵でもある。魏の文人である嵆康(けいこう)は、音楽(琴)による養生の効能も説いており、益軒の「楽」の思想にも通じるものだ。

 つまり、自分の身心が「楽」で「心地よい」手段を探すことが、養生に通じる。医療も芸術も分離されていなかったのだろうと思われる。嵆康(けいこう)は、暮らしの環境を整えることも養生の一環として捉えており、病院の診察室内で「病気」を診る現代医療が忘れていることを思い出させてくれる。わたしたちは、生きている場や環境から無意識に膨大な情報を受けている。暮らしの場をよりよくしていくことは、広い意味での養生法であり医療行為であるならば、住まいづくりや町づくりも、現代社会とは全く異なる視点で考え直すことができるだろう。

日々の暮らしと『養生訓』

 第4章は、貝原益軒『養生訓』の教えに関する章である。江戸時代の日本人は人生50年時代であり、そうした短命社会の中で貝原益軒は84歳まで生きた。そして、晩年に精力的に著作を発表し、亡くなる前年である83歳の時に健康長寿の心得として『養生訓』(正徳2年・1712年)を出版し、当時のベストセラーになった。貝原益軒は多数の中国の古典からも引用しており、『養生訓』は常に参照点となりうる本である。

 益軒には、忍ぶ、こらえる、慎む、ひかえるなど、自己抑制のテーマが数多く出てくる。アクセルの踏み方ではなく、ブレーキのかけ方こそが養生の基本なのだと。そして、「楽」の境地を繰り返し説いており、いかなる困難でも楽を失わないことを「君子」と呼び、そのために「いささか」(ほどほど)の距離感こそを繰り返し説いた。

 第5章では、江戸後期の庶民文化の中に処世術としての養生を見出し、道徳的教訓や人生論的随想なども含めて「養生」への記載を広く取り上げている。日本の養生は道を極める方向ではなく、日々の暮らしへと向かった。

 益軒が「いささかよければ事足りぬ」と述べ、「万事において完璧を求めると、心の負担になり「楽」がない。禍もここから生じる。また、他人に完璧を求めるあまり、足りないところが気になり怒りが生じるので、これも心の負担になる。その他、日々の飲食、衣服、家具、住居、草木なども、完璧を好むべきではない。「いささか」でよい。完璧に良いことを望むのはよくない。すべて「気を養う」工夫である」と述べるように、江戸の益軒以降のあらゆる立場は、この「宜しき分量」や「いささか」の程度をめぐる議論となる。

弱く脆い人間を支える「曖昧」の知恵

 個々の基準は客観的に数値化できるものではないため、最終的には個々人がいかにして自分の物差しを作ることができるか、というところに「養生」は着地していく。融通が利くとも言えるし、はっきりせず曖昧だとも言える。本来的に曖昧でしかない主観を基準線に置いているため、代替医療や統合医療、ホリスティック医学で語られる「養生」法の質が玉石混交になってしまうのも事実である。ただ、客観性を重視するあまり、現代医学で見放された人たちの身心の避難所は、そうした場しかないこともあるだろう。

 身心が危機的な状況になったときの養生法は、どうした道を歩んでも茨の道である。だからこそ、時の洗礼を受けて残ってきた歴史から学ぶことは大きい。人間は、身心のバランスが不安定になると、どんな非合理なものであっても信じるし、非倫理的な行動を起こすこともある。人間は強い時もあるが、弱く脆い存在でもあるのだ。

 そうして人が損なわれてしまったとき、支えになるものは必ずしも科学や医学だけではなく、養生が探求してきた真摯な歴史でもあるだろうと、自分は医療現場で肌身に染みて感じている。そうしたことに医療者も深く理解を寄せる必要がある。

 様々なものが分断されようとしている時代に、養生の文脈で身心の叡智を学び直し、分断された世界に橋をかけようとする営みは大きな希望だ。医の使命は、人間の心の深い部分に光明を宿すことであるとも思う。そのひとつの光明を本書は指し示している。本書を読むという読書体験により、先人たちの切実な思いが読み手に流れ込み、混迷した現代を生きるわたしたちが力強く生きていく力を、しっかりと受け取ることができるだろう。

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