「アディクション」に向き合う 〜幾多の失望と挫折を味わいながらも、当事者の回復を信じるために
記事:朝倉書店
記事:朝倉書店
「アル中」(慢性アルコール中毒)という言葉はもはや死語になりつつありますが、それでも社会的に強いインパクトを持ったキーワードとして印象に残っている方も多いでしょう。アディクションが最初に知られたのは酒との関係においてでした。
アディクションの原点は、人類にとって最も身近だった酒(アルコール)にある。…(中略)…1960年代の日本ではアルコール摂取の結果起きる心身の障害は中毒と呼ばれ、精神科医療では慢性アルコール中毒と診断された。…(中略)…アルコール中毒(略してアル中)はスティグマを孕んだ呼び名として広がり、一部ではいまだに使用されている
1977年、世界保健機関(WHO)の専門部会は新たな言葉を提言した。アルコール・薬物問題の基本には、それを摂取する主体と物質とのあいだに依存(dependence)が生じるのであり、それらは単一というより精神・行動・身体にみられる様々な症候群から成っているとしたのである。ここからアルコール依存症という診断名が誕生した。…(中略)…依存症という言葉の誕生と同時に80年代に入って英語のアディクションが用いられるようになった。
その後、アルコール依存症の概念は大きく変化・発展してきましたが、他の精神疾患と比べると、医学的に「病気」として扱える度合いが低い(専門用語でいうと「疾病概念が脆弱」)、という特徴がありました。これは治療において大きな問題であると同時に、医学ではなく心理学からのアプローチがより重要になるという特徴にもなってきます。
依存症・アディクションを専門としている精神科医は、薬剤の処方に繊細な配慮をし、時には薬を処方しなかったりする。患者さんから特に苦情がないのに投薬を続けると、処方する薬そのものが依存・嗜癖の対象となってしまうことを知っているからだ。
…(中略)…アディクションをやめさせる薬がないこと、つまり薬物療法の果たす役割が少ないことは、手間暇がかかる割には経済的メリットが少ないという現実につながっている。コストパフォーマンスの問題を考えると、医療経済的に精神科医療において今後アディクションがメインロードになる時代は、当面望めないのではないか。そうなると、アディクション臨床において狭義の精神科医療の果たす役割がこれ以上増大することはないとすれば、これは心理職の果たす役割が大きくなるという根拠ともなるだろう。
そこで、心理学の専門家である筆者は自ら依存症のカウンセリングセンターを設立するにあたり、柱となる4つの理念を設けます。
a.本人より家族
アディクションの特徴は、…(中略)…本人には援助希求や治療意欲がまったくみられないことだ。むしろ飲酒の弊害は家族への暴力・暴言として現れるため、当初から飲んでいる本人より家族こそ援助対象である。
b.「底つき」概念の限界と意義
「なぜ今酒をやめていられるのか」を説明するために、自らの体験を語る際に用いたのが「あのとき私は底をついた」(hit the bottom)という表現だった。……ひとつの遡及的表現だったものが、いつのまにか……酒をやめさせるための方法として「底をつかせる」ことが有効だと転化されたのである。……うまく運べば援助希求につながる福音になるが、一方でそのまま飲みつづけて死亡するリスクも孕んでいる。
一部では過去のものと考えられているが、底つき概念がもつ意味を再考する必要があるのではないか。つまりアディクションによって引き起こされた事態に本人が直面することが、アディクションをやめる大きな契機になるという示唆である。
c.イネーブリング
イネーブリングとは……手厚いケアが逆に本人を「底つき」から遠ざけるという、ケア・援助の有害性を主張する概念である。……飲酒による問題に本人が直面し、引き受けられるようになるためには、イネーブリングをやめる必要がある。
d.自助グループの重要性
専門家が研究・臨床のエビデンスを重ねる以前から、当事者自らが生きのびるために作った自助グループは存在した。この当事者主導こそアディクション援助の最も大きな特徴である。……アディクションの回復に関する思索・洞察は、多くの当事者によって更新されつづけている。
「薬物ダメ、ゼッタイ!」という標語に代表されるような、「悪いものは完全に絶つべき」という考え方を「ゼロ・トレランス」といいます。それに対して「完全にやめられなくても、周囲におよぼす害(ハーム)を減らせればいい」という「ハーム・リダクション」という考え方も生まれてきました。
多くの国では安全な薬物使用を公的に認可する動きが生まれている。厳しく犯罪化することが、決して薬物使用を減らさないということが示されているからだ。
……援助者や専門家の役割は、アディクションをやめる/やめないではなく、物質使用の害悪がもたらす二次被害の低減を促すことにある。
……「やめること」をゴールとしないことが、「やめることの無意味さ」を意味するわけではない。……筆者の経験では、カウンセリングを継続しながら週2~3回の飲酒で収まっている人は多いし、女性のクライエントの場合はトラウマ治療と並行することも多い。
最後に、アディクションとはどういうものか、どう向き合うべきなのか?について、筆者はこのようにまとめています。
歴史的にみれば犯罪や逸脱として語られることも多いアディクションは、病気や病理として犀利に分類整理されることを拒み、多様な言葉で呼ばれることを許す、いわば、曖昧な行為の束なのである。それは度し難く記憶にとどめることすらできないほどの衝撃をもつ経験=トラウマを負った人たちが、それでも生きていくために、記憶に圧倒されないために、自らを鎮痛させ鈍磨させ、誇大的幻想に浸るために行うのかもしれない。それをいったん肯定するところからアディクション援助は始まるのであり、「こころ」の問題に集約させないことが肝要である。
この曖昧で不定形である習慣的行為は、20年前には想像すらできなかったゲーム依存を誕生させた。今後も新しいアディクションが生まれてくる可能性は高いだろう。しかし相変わらずアディクションの本人は治療や援助を拒み続けるだろうし、周囲の人は困り続けるはずだ。心底困っている家族に迅速に対応できる介入的援助が、心理職に求められている。
アディクションの成り立ちを理解し、当事者が示す回復のロードマップを知っていれば、同じプログラムのマニュアルを実践してもそこには違いが現れるはずだ。なぜなら、アディクションの回復について幾多の失望と挫折を味わいながら、それでもなお希望があると信じているということが、援助を求める当事者には伝わるからである。