『シュタイナーの人生論』を読む(上)――私の人生の問いを抱いて
記事:春秋社
記事:春秋社
本書の著者である高橋巖氏は、長年続けておられるシュタイナーを読む講義で、シュタイナーを「私のシュタイナー」にしてください、とよく言われる。それがこの講義の目的です、と。そういうシュタイナーと受講者一人ひとりとの、縁を深める講義活動の傍らで、ご自身の人智学をまとめて語られる講演も、年に何度かされている。この度出版された『シュタイナーの人生論』は、その近年の講演の、七つの講演録から編まれた本である。
シュタイナーの著作や講義・講演録は、そのどれもが人生論として読むことができる。だから「シュタイナーの人智学」は「人生論」であると言ってもよいように思える。また逆に、この『シュタイナーの人生論』を『人智学』と言い換えてもよいように思える。そして本書の目的は、「高橋氏の人智学」に触れることで、読者が人智学を「私の人智学」にするところにある、とも言えるのである。本書は、読者が人智学との縁を深める、「私の人智学」への門となり得る本である。
人智学とは何なのか。人智学に、そしてシュタイナーと高橋氏に、私はちょうど40年前の1981年の初夏に、「人智学の時代」という、朝日新聞の夕刊に掲載された記事で出会った。その記事の筆者が高橋氏であり、そこにはどこか厳しい顔つきのシュタイナーと、さわやかな、やさしい面持ちでこちらを向いた高橋氏の顔写真も載っていた。(同じ頃、高橋氏の『神秘学講義』という本も書店で見つけた)。先日その記事を再読し、あらためて現代は、人智学の求められる時代であることを確認できた。そして本書は、その求めに応えている本であるように思えたのである。
時代が求めているものとは何なのか。「人生」からはじまる、その「人智学の時代」の冒頭の、時代状況について書かれた部分を紹介したい。 (日本人智学協会Webサイトの「人智学の時代」参照)。
人生の意味や目的を問うことは理論理性の能力の及ぶところではない、と主張したのは近代ヨーロッパの理性そのものでした。それ以来200年間、「この世に生を受ける」ということの意味を「科学」の名の下に考えることはほとんどなくなってしまいました。
そのような近代ヨーロッパの理性を範とする文化に対抗して、人生の意味や目的をこそ問うこと、「この世に生を受ける」ということの意味を「霊学」によって考えること、それがいわばカウンター・カルチャーとしての、シュタイナーの人生論である人智学なのである。
科学はもっぱらこの世の現実に仕えることに終始し、哲学はそのような科学の方法論として生きのびようとしているかのように見えます。この世の現実そのものの意味を問うことは、むしろ文学の課題になってしまいました。
学問がますますこの世の中での、有用性を規準にして行われるものになる一方、アンダーグラウンドから、この世の意味を問う、物語りの力の復権が様々な形で起こっている。
そして今、大学生たちがアカデミズムに対する闘争をあきらめたあとを受けて、もっと幼い子どもたちが自殺と暴力行為を通して社会に精一杯の抗議をしているのに、大人たちがそれに対する本質的な対応の仕方を見いだせない教育の現状を見るにつけて、この200年間の付けがまわってきたと思わずにはいられません。
近代ヨーロッパの理性の付け――人生の意味や目的の空隙に入り込む、シュタイナーが言う技術と産業と営利主義(本書224ページ)の毒――がまわった社会の中での悪戦苦闘に対して、本質的な対応として、どのような生き方ができるのか。シュタイナーの語った人智学だけではなく、それに基づいた教育、建築、農法、療法、治療教育、運動芸術、等々の社会生活の実践も、すべてこの問いに根差しているのである。そしてこの記事の文章は、「人智学的認識を通して、次第にその人生を変革させていきます」、というポジティブな言葉で終わっている。
「人生」から始まりその「変革」の示唆で終わる、この「人智学の時代」の問い、危機の時代に人生の意味や目的を問うことの、今に至る継続と深化として『シュタイナーの人生論』を読むことができる。人生の問いを抱いて向き合う人が、人智学を「私の人智学」にできるよう、その人の内側のいっそう身近なところで、高橋氏が問いかけておられるのを感じることができる。
高橋氏のぶれない生き様には、一貫した主題、人生観、人智学観があるように思える。そして氏の講演は、その時々の題目、状況に応じた、その変奏曲のように聞くことができる。そのような氏のその時々の変奏を集めたのが本書であり、あとがきにあるように、春秋社の編集者が章立てし小見出しを付けて下さったことで、七つの変奏の流れを通して高橋氏の生き方の主題が浮き出るような本となった。そして私は今、この本を読んで、個々の講演を聞いたときとはまた違うかたちで、高橋氏の人智学の物語りの力に触れる体験ができているのである。