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『シュタイナーの人生論』を読む(下)――人智学のイノチに触れる

記事:春秋社

京都年末講演会(2010年)
京都年末講演会(2010年)

「カタチとイノチ」に魅かれて

 七つの変奏(講演)からなるこの本の作りのなかで、「カタチとイノチ」という講演が冒頭に置かれていたことが、私にとって大きな意味をもった。活字になった高橋氏の語り口に、あらためて親しむために、第一章の「カタチとイノチ」を、何度も繰り返して読んでいた。そうする中で、予期せぬことであったのだが、「シュタイナーの人生論」というこの本のクラシックなタイトルの、その「人生論」の意味合いが、あらたに見えてきたのである。それはこの章の中に出てくる、「人間というカタチをとって今ここに生きている」、という言葉によってである。

 カタチとは何か、形態とは何かも、まだ今の学問のレヴェルでは解明されていない、という立場でいられるでしょうか。そうだとすれば当然、人間というカタチをとって今ここに生きている人間存在の意味も、学問的・科学的には分からないで済ましていることになるわけです。(8ページ)

 ここを読んで、カタチの意味を問うことは、先に紹介した「人智学の時代」の、人生の意味を問うことと、同じであることに気がついた。そして、「人間というカタチをとって今ここに生きている」という観方が、この本の「人生論」の「人生」の観方である、と思えたのである。「人生」の「人」は、人間というカタチをとっているという意味での「人」であり、「人生」の「生」は、今ここに生きている生命(イノチ)という意味での「生」なのである。そういう人生――人というカタチをとって今ここに生きている生命(イノチ)――の意味を問うのが、この本の「人生論」であり、だからこそ「カタチとイノチ」がまず問題となるのである。

 このような「カタチとイノチ」としての「人生」の観方は、霊学である人智学の特徴でもある。『神智学』や『霊学の観点からの子どもの教育』等のシュタイナーの人智学の基本書や講演録で、肉体、エーテル体、アストラル体、自我という人間の四つの存在形態をまず取り上げるのは、「この世に生を受ける」ということの意味を考えるために、この世で人間がとっているカタチを考えるからである。そしてそのカタチの変容に、イノチの現れを観るからである。

 高橋氏は、カタチの意味を問い、カタチの向こうのイノチ(意志)に到ろうとするのは、美学であると言われる(7ページ)。だから高橋氏の人智学は美学となる。「私の美学」が次の第二章のテーマである。イノチの世界に触れる美的体験の瞬間を求める、そういう「私の美学」へ到る氏の遍歴が語られている。

魂のさすらい

 人生の意味と目的を求めて生きるとき、言い換えると、カタチの世界でイノチの世界に向き合って生きようとするとき、魂はさすらうのではないか。第三章は「魂のさすらい」である。本書が出版された頃、この「さすらい」との関連で、春秋社から出版されている『ノマド』という本を原作とした『ノマドランド』という映画を観た。今までの生活のカタチが崩れた、喪失感の中にいる主人公が、さすらうことで、イノチに深く触れていくようになる、人生の変革が描かれていた。主人公がそのイノチの力に打たれる、圧倒的な自然のカタチの映像が美しい映画でもあった。この章で紹介された、さすらうことで罪を浄め、後悔を浄める、「さすら姫」の働き(89~90ページ)が、『ノマドランド』のノマドにも働いているように思えた。この第三章「魂のさすらい」の講演時のタイトルは、本書のタイトルにもなった「シュタイナーの人生論」であったのだが、現代社会の中で「さすら姫」の働きをするのが、「シュタイナーの人生論」である本来の人智学ではないか、と思った。

 最終章の「今を生きる人智学」へと到る、第四章からの、神秘学、ミカエル、アナキズムをテーマにした各講演は、人智学自体に対して語っておられるようにも読めた。この世では、人智学もひとつのカタチである。だから人智学のカタチを分析したり、明瞭にしたり、なぞったりすることができるし、人智学のカタチの王国(人智学ランド)を頭の中にも、この世の中にも作ることもできる。その中で、意味を感じて生きることができる。しかしだんだん嫌になるのである。人智学というカタチをとって生きている元のイノチを、感じられなくなるからである。今までの生活のカタチが崩れ、イノチを求め、精神のノマドランドをさすらうことで、人智学に出会ったはずなのに、人智学というカタチの中で生きることで、イノチが感じられなくなるのである。だから再びイノチを求めてさすらう。それがアナキズムの天性なのであろう。イノチを求める初期衝動が復活し、人智学のカタチも崩れ去る。そして人智学のカタチの外の、ネコちゃん・ワンちゃんやノミ君やペットボトル君や他の人やロウソクの火(231ページ)等々、身近なものから疎遠なものまで、一つひとつのカタチのイノチに出会っていくのが、シュタイナーが晩年強調した、現代のミカエルの秘儀なのである。「どんな存在も尊い」(帯の言葉)。

 ほんとうにそうだ、と本書を読んでいるときには思える。「高橋氏の人智学」の物語りの力を受けて、人智学のカタチの向こうのイノチに触れるのである。人智学が「私の人智学」となる、このひと時の伝授を求めて、人生の問いを抱いた読者は、本書の門を何度もくぐるのだろう。

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