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扁平足問題、足の痛み、履物まで 人生をかけて取り組んだ『ヒトの足』の研究

記事:創元社

著者のロマンと熱意に満ちたライフワークの集大成
著者のロマンと熱意に満ちたライフワークの集大成

敗戦を跳ね返す気迫でやり遂げた、切断足実験

 戦後のあの困難な日々を思い出す、私の足の研究の歴史のなかでも、それは一つのハイライトなのであった。その年はたいへんに寒い冬の日がつづいた。その中を、私たちには熱に浮かされたような日々をもちつづけていたのであった。昭和二一年から二二年への冬、戦後まもなくて、住むところも、食も、衣も、何もかも乏しいときであった。田蓑橋という阪大病院と、基礎教室とをむすぶ橋の上を、いったい何回荷をかついで急ぎ足に、少々人目を避けながら渡ったことであろうか。冷えきった解剖室のなかで、足を膝下から外して、いただいて帰るのである。もちろん暖房もなく、セントラル・ヒーティングなど夢にも考えることもできなかった時代。

 一九二〇年代の学生時代に、スキーの選手であった私たちが、スキーを履きつぶして、ストップウォッチ片手に、土の上を走っていた運動場の横の、うす汚れたコンクリートの建物が法医学の解剖室であって、今も昔のままに建っている。寒さに震えながら、大学院生であった城戸(正博)君とか、山崎・荒井などの助手諸君との懸命の奮闘であった。北風に身をちぢめて、中央部の高くなった橋をわたると、再三警察官にとがめられる。いかにも怪しいボロ姿のうえに、異様な荷物をかつぐ二、三人連れではあった。闇物資を摘発するための検問なのである。解剖室へ死体の処理にいくのには、医者らしい服装などするはずはなく、浮浪者と間違われても当然ではあった。少々すり切れた手術布の何枚かの中から現れ出るものは、検問の警官をギョッとさせるに足る代物であり、血の気の少しもない蒼白の、ぶらりとした一、二本の人間の足なのであった。

 私たちにとっては、これはじつに死に物狂いの仕事であった。学会からこともあろうに宿題報告という名誉ある指名を受けていたのである。何しろ、戦後の学会は惨憺(さんたん)たるものであった。交通機関も、宿も、食糧も、いっさいが確保できるかどうか、全然はっきりはしなかったのであるから。その年の五月に東京で外科学会がお茶の水の医師会館で開かれたときも、東京までの列車は腕力をふるってようやく洗面台の鏡板のうえに危うく腰かけて行ったものの、会館の便所は内容物が外にあふれて流れだしていた。翌々年の札幌の学会でさえ、北海道の米の配給が一か月以上遅れているとのことに、たくさんのパンを神戸から持参したうえ、宿は中学のクラスメートの北大教授(高岡道夫、もとの総長熊雄博士の息)の家に厄介をかけた始末である。二一年秋に京都で開いたときも、演題を出す人があるかどうか、というので、指名で二〇人くらいが出た。私もその中に選ばれたが、すぐ半年あとに医学会総会があり、私がまたまた指名を受けることになったのであった。前会長と次の会長との相談で、丁重な依頼をうける。学会の主題となる名誉あることなので、今までやってきた研究のみではなく、人のできないような、新しい研究をやろうと決心して、若手の人々の協力を得たのであった。

 とはいえ、準備期間はわずか半年であり、データのまとめと、製図やスライドの作製(今と違ってガラス乾板を用いたもの)に一か月あまりをかけると、正味は四か月を切る。そういう切迫した事情が、私たちを急きたてていたのではあった。それでいてさえ、私には、むらむらと年来の狙いが頭をもたげてくるのを、どうすることもできなかった。戦時中からやりはじめたものの、適当な、よい試験材料にめぐまれなかった「切断足実験」である。そのとき、軍の病院ですでに実験機械もできており、計測は、お手のものであり、あとは材料ばかりなのであった。「やろう。この機会を措いてはないのだ」と私の心のなかでは、強く叫ぶ声があったのである。

 若い人たちもみな一様に空腹をかかえてはいたが、みな、何かをやってやろう、敗戦を跳ねかえしてやろう、との気迫には烈々と燃えるものがあった、戦争に残ったものにも、戦地から帰ってきたものにも。研究計画はたちまちできあがる、何しろ、多年にわたって胸の中に暖めていたものなのであったから。あとは、ただ研究の対象になる足がどのくらい集められるかということのみであった、それもたった二、三か月の短い間にである。

 「足」の供給源としては各病院における切断足と、法医学において、引き取り人のないようないわゆる行路病者(行き倒れ)などがある。各病院に頼んで集められた足は一一足に過ぎなかったが、それも必ずしも良い材料ではなかった。足とはいえ、膝から下の半分くらいは付いていないと実験はできなかったし、骨折でくだけているものでは役に立たないし、長い入院や、不使用で骨が弱りきっていて、目方を上からかけられないようなものも実験には不適当であった。結局、いちばんの頼りは法医学さまさまであった。戦後はアメリカ占領軍の命令で、大阪の変死体はすべて大阪大学病院に集められて、死因を調査報告することになって、その全部が法医学教室の手を経るわけであった。そこに事情を話して頼みこむ。この機会を逃がしては、との私たちの熱意が結局ことを成らしめたのである。

実験内容

 この実験とは、切断した足に目方をかけてみて、どういう変化が起こるかを調べようとするものであった。いままで私の長い年月をかけた研究の結果、いろいろと新しい疑問にぶつかって、どうしても切断足の、少しくまとまった数を用いての実験をしてみなければ、解くことができないとまでわかっていた。

 切断足の実験は、戦争中に陸軍工場病院で行ったものは八例、一九四七年(昭和二二)の宿題報告には、これを合せて六二例をもって行った。実験装置や方法については本書では省略するが、陸軍の工場にいたため、戦争にかかわらず金属材料も十分に用いて作った装置で、戦後は阪大整形外科へ運びこんでおいたものであった。

 実験は大きく分けると二種類になる。一つは足の上に目方を載せていって、足がどれぐらいの抵抗力を持つかを調べることであり、足アーチの構造的な強さとか、その小骨をつなぎとめている靱帯組織の強さのほどが知られるはずである。このためには、だんだんと目方を増していったとき、どう変わるか、また、何時間にもわたって継続して荷重をかけたとき、どういうふうに変化していくかも、ひとつの課題である。この実験によって、「足アーチ」が筋肉のたすけなくして、どのくらいに形を保ち得るか、どのくらいの強さの構造体を形づくっているのであるか、あきらかになるであろう。

 いま一つの方は、筋肉の作用についての実験である。今までの関節機構学では、足底を地面につけた状態における筋肉の作用がまったく問題にされていない。上から目方をかけた状態のままで、ひとつずつの筋なり、いくつかの筋と筋とのあいだの、共同作用や、反対の作用などを分けて調べていこうというものである。

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