「個性」とはなにか。ー我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか
記事:朝倉書店
記事:朝倉書店
ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)の名作「D’où venons-nous? Que sommesnous?Où allons-nous(我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか)」(1897–1898 年)は、アメリカのボストン美術館に収蔵されている。
故郷のフランスを離れて1891 年よりタヒチ島に移り住んだゴーギャンは、最愛の娘を亡くしたり、借金を抱えたりと、失意のどん底でこの大作を描き上げた。約4 mもの幅の横長の画面の右側には、3 人の座った人間と寝かされた子どもがいる。中央の人物は立って手を伸ばして何か果物のようなものを取ろうとしている。左側には年老いた人物が見える。つまり、絵の右側から左側へと人間の時間の流れが描かれている(西洋絵画ではシーンを切り取ることが多く、時間の流れを、しかも右から左に描くのは日本の絵巻物的だ)。
2010 年の冬、筆者はプチ・サバティカルとしてボストンに滞在していた間に、この絵を観る機会を得た。このテーマはキリスト教の教理問答に基づくというが、筆者は人の一生から、さらに長い時間軸である「進化」に思いを馳せていた。受精卵から個体が発生、発達し、個体としては老いて死に至るものの、命は生殖によりつながっていく。ヒトは どのようにして ヒトとなったのか。そして、ゴーギャンはタヒチの人々と接しながら、人類の多様性についてどのように考えていたのだろう……。
その冬のボストンは雪の多い年で、2011 年1 月、帰国の直前、凍った歩道で転倒した。無意識にMacBook Pro を守ろうと、トートバッグを抱えて顔面から着地し、目の周りに見事な青タンを作った。やれやれ……と思ったら、帰国後すぐに東日本大震災に見舞われた。
2020 年は新型コロナウイルス感染症のために、すべての学会がウェブ開催となったが、10 年前の東日本大震災後も、東北新幹線や仙台発着の航空路線がストップした。出張の頻度が激減したため、研究室で購入していた科学雑誌のページを捲る時間ができた。普段はもっぱらインターネット検索して論文を読むのだが、紙媒体だと読もうと思っていたわけではない論文にも目が止まることがある。
やはり雑誌の購読も大事だと思い直していた頃、Nature 誌のある記事に目が止まった。Karen Weintraub というフリーランスライターが書いた「なぜ近年、自閉症の発症頻度が上昇しているのか」という問題についての論考だった。ボストン在住のこのライターの論考を読まなかったら、筆者が自閉症などの神経発達障害を複合的にとらえることも、こうして本書の編集や執筆に関わることもなかったと思うと、これは何かの縁だし、大震災のsunny side だったのだ。
より統合的にニューロダイバーシティという視座から発達障害をとらえたいと考えるようになった筆者は、2016 年4 月に『脳からみた自閉症―「障害」と「個性」のあいだ』という新書を講談社ブルーバックスとして上梓した。そして、2016年秋より研究グループ「多様な〈個性〉を創発する脳システムの統合的理解」を立ち上げた(http://www.koseisouhatsu.jp/)。「個性」という言葉は、普段の会話でも何気なく使われるが、これまで十分に「科学」としては扱われてこなかった。
ビッグデータの数理工学的解析が進んだ今なら、様々な動物を用いた分子レベルの研究と、心理学的研究を融合させ、「個性」の成り立つメカニズムまで統合的にとらえることができるのではないかと着想したのである。このようなコンセプトに至る筆者の脳内模様の詳細については、第I 章第1 節の前半を御覧いただきたい。
文部科学省に提出した研究グループの申請書の冒頭には、以下のように記した。
ゴーギャンは「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という畢生の大作を描いた。「我々は何者か?」という問いの中には、普遍性と固有性が潜んでいる。「人間は他の動物とどのように似ており、どのような点が異なるのか?」、「日本人は白人とどこが違うのか?」、そして究極には、「私とはどういう人間なのか?」 このような根源的な問いを解くヒントは、発生、発達と進化の理解の中にある。
この5 年間、約80 名の多様なバックグラウンドをもつ研究者が「個性」を共通キーワードとして、それぞれの立場から研究を進めつつ、毎年の領域会議における議論により互いの研究への理解を深めていった。多様性についての配慮がより重要となっている現代社会において、我々は「個性学」を提唱するものである。