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『哲学者・木田元』余録――なぜ木田元は自分史を語るのか(大塚信一)

記事:作品社

『哲学者・木田元 編集者が見た稀有な軌跡』(作品社)。装幀・高麗隆彦、装画・桂川潤
『哲学者・木田元 編集者が見た稀有な軌跡』(作品社)。装幀・高麗隆彦、装画・桂川潤

 木田の仕事の面白さは、偉大な哲学者のテキストの学問的で精緻な分析であると同時に、自らの特異な生き方と関わらせて大胆にそれを読み解くことから生まれるものだ、と私は思う。

 そのために、木田は自分史を語った。私はその最初でもっとも典型的な一つの例を『ハイデガー』(20世紀思想家文庫、岩波書店、1983年)に見る。つまり、そこでは通常の哲学書とは異なり、彼がなぜハイデガーに興味を抱いたか、自分史を語ることからこの本を書き始めているのだ。

池袋の小さな飲屋で

 ところで、後に木田が多くのエッセイ集で何回も自分史を語ったことは、良く知られている。ここではその中の一つで、ある特定の場所について語っている文章を、『哲学の横町』(晶文社、2004年)から引用してみよう。

 私がしばらく暮したのは、池袋西口にあった闇市である。敗戦後、十六歳で海軍兵学校を追い出されたが、満洲(現・中国東北部)育ちの私には帰る当てがない。兵学校のクラス担任の先生の佐賀のご実家に一月あまりお世話になったあと、東京に出て上野の地下道で戦災者にまじって野宿をしているうちに、テキ屋にスカウトされたのだ。下町で被災して池袋西口に移り、闇市のなかで古着屋の店を開いているテキ屋だった。(中略)
 当時池袋の西口には、細い柱にベニヤ板を打ちつけただけの小さなバラックが、いまもある二股交番の近くまで果てしもなく立ち並び、そのあいだに迷路のように道が走っていた。すべてが小さな店舗で、雑炊をくわせる食堂だったり食料品や繊維雑貨を売る店だったりした。

 実は、私はこの池袋西口の闇市と共に育った。80年もこの西池袋という土地に住んでいる私には、現在の東武デパートや巨大な芸術劇場をはじめとするモダンな都市風景はつい最近のことで、目を閉じると低い二階建ての猥雑な建物が不規則に並んだ闇市の姿が浮んでくる。

 木田と親友の生松敬三の二人は、私より一世代上の新進気鋭の哲学者たちだったが、彼らは新米編集者の私を可愛がってくれた。当時私たちがよく飲んでいたのは、東口にあるかつての闇市の中にある飲屋だった。

 生松は西武池袋線の沿線に住んでいたので、池袋で一杯やるのは不思議ではなかった。だから私は、木田は生松につき合っているのだろうと、軽く考えていた。ましてや、木田にとって池袋は忘れることのできない土地であったとは、想像すらできないことであった。

笑顔で写る木田さん(右)と大塚氏(2009年、池袋の書店イベントの会場にて)
笑顔で写る木田さん(右)と大塚氏(2009年、池袋の書店イベントの会場にて)

哲学者としての出発

 なぜ私が小さな飲屋のことばかり言うのかと言えば、それは木田が17歳頃の多感な青春時代を過ごした闇市の雰囲気を、色濃く残している場所であったからに他ならない。

 木田が生涯をかけて追究したハイデガーの思想は、第一次世界大戦に破れたドイツの青年たちの心を捉えた。公刊された『存在と時間』は、ハイデガーの本来の意図とは異なる意味で絶讃され、それがフランスや英米にも広がったのだった。

 第二次世界大戦に敗れて、満洲育ちのために身寄りのない土地にたった一人放り出された木田が、かりそめにも身を置いたのが、池袋西口の闇市の中のテキ屋であった。やがてつてを辿って父母の出身地である東北に行き、満洲から帰国した母親と姉を養う。そのために小学校の代用教員や闇屋のマネ事をして金をかせがなければならなかった。

 当時、木田は『存在と時間』という本のことを知り、それをきちんと読むためにはどうしても大学で本格的な哲学の勉強をしなければならないと考えた。すでにその邦訳も出版されていたのだが、誤訳だらけでとても役に立つものではなかったのだ。

 幸いに、父親が帰国してきたので、木田は家族を養うことから解放された。そこで彼は、在学していた山形県立農林専門学校を卒業し、大学入試の準備を始めた。1950(昭和25)年に、22歳の木田は東北大学文学部哲学科に入った。戦争の影響があったとはいえ、ずいぶん遅い出発だった。

木田夫妻(左から2,3人目)と大塚氏ら岩波書店編集部員(『ハイデガー『存在と時間』の構築』の刊行慰労会にて)
木田夫妻(左から2,3人目)と大塚氏ら岩波書店編集部員(『ハイデガー『存在と時間』の構築』の刊行慰労会にて)

木田哲学にとっての敗戦

 このように見てくると、木田が自分史をしつように語るのは、ある意味で当然のことのように思える。ハイデガーの思想が第一次世界大戦におけるドイツの敗北と切離して考えられないように、木田の哲学も第二次世界大戦における日本の敗戦という事実を抜きにして語ることはできないのではなかろうか。

 たまたま私は、木田の青春時代における忘れ難き池袋西口の闇市のすぐ近くで生まれ育った。『哲学者・木田元』を書くことによって私は、木田や生松と共に飲み歩いていた頃から半世紀もたって、初めてその大きな意味に思い到ったのである。

 何と遅まきの理解であることか! 木田とそして生松も、あの世で笑っているに違いない。

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