「ポスト真実」前史を読み解く 米ソ(露)情報戦争の秘められた歴史(インテリジェンス研究者・小谷賢)
記事:作品社
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まずは真実というものについて一言述べておきたい。我々が普段使う真実という言葉は客観的な事実を指し、本来、非政治的なものである。ところが本書内で用いられる「真実」は往々にして、「個人の思想信条や価値観に沿った情報」であり、本質的には政治的なものとして扱われる。
つまりある価値観を信じる人間にとっては、その価値観に適合する偽情報の類も時には「真実」として映るのである。これは「ポスト真実」といわれる現象で、人は客観的な真実よりも、自分の考えに近い情報や感情に訴えかける情報を選別する傾向があるということだ。
この人間の本質や民主主義の弱点に早くから着目し、意図的に情報の流布を行ってきた組織が存在する。それが旧ソ連・ロシアを始めとする旧東欧圏の情報機関なのだ。彼らは自らの行為を「積極工作(アクティブ・メジャーズ)」と呼び、戦前から現在に至るまでそれを実行してきた。
積極工作とは、対象国の文化や社会背景等を吟味した上で、真実の中に偽情報を埋め込み、効果的なタイミングでそれを漏洩・拡散することで、相手を混乱、弱体化させることを狙いとするものである。本書によると、1985年にソ連の情報機関、KGBが積極工作に投じていた資金は年間30〜40億ドルにも上るという。
積極工作を仕掛ける側のロシア人たちは、「暗い真実は、暗い噓が伴うとさらに暗くなる」ことをよく理解していた。その金字塔の一つが、1967年12月に突如公表された米軍の極秘文書「Oプラン10–1」である。この工作は、西ドイツ情報機関幹部ホルスト・ヴェントラントの自殺と、元西ドイツ情報機関員ハインツ・フェルフェがソ連にもたらした米軍の文書を、KGBが噓と偽造で結び付けたものである。
ヴェントラントの自殺はうつ病以外の何物でもなく、フェルフェの資料は古くて利用価値がなかった。そこでKGBは一計を案じ、欧州でソ連との戦争になった場合、米軍は核兵器を用いる計画である、との秘密文書を偽造したのである。KGBの筋書きは、ヴェントラントは米軍の秘密計画が心理的な重荷となって自殺し、生前のヴェントラントから資料を託されたフェルフェが秘密文書を公開したというものである。
公開された文書は、フェルフェが盗み出した本物に偽造が加えられたもので、真贋を見抜くのが非常に困難だった。そのため同文書は欧州各国の雑誌に取り上げられて話題となり、西ドイツ政府までもがそれを本物と認めてしまったことで、米軍の欧州防衛計画はかなりの打撃を受けたという。
さらにその後も、KGBと東ドイツの情報機関シュタージは、東ドイツのジャーナリストに機密情報を提供して、『CIA人名録』を出版させている。これは米国中央情報庁(CIA)職員3000人分の名前や経歴、勤務地について書かれたものであるが、かなりの部分はねつ造であった。
それでも、人名録に名前が載っていた2名の人物がCIA職員と間違われて射殺されている。これを受けてCIAも米国のジャーナリストに情報を提供し、『KGB――ソ連秘密機関の全貌』という本を書かせ、巻末付録としてKGB数百人分の職員名簿を貼り付けたのである。こちらの内容はかなり正確であったという。
こうしてCIAもKGBも積極工作によってお互いを混乱させることに血眼になっていたが、どちらかといえばこの分野においては終始、東側が優勢であった。それは東側の工作の方が洗練されていたこともあるが、西側諸国では言論やデモの自由が保障されており、そこに付け込む余地が大いにあったためである。
しかしその後、インターネットが爆発的に普及すると、もはや積極工作は欧米のジャーナリストや知識人の手を借りなくてもよくなっていた。サイバー空間では直接、一般市民に偽情報を晒すことができたためである。こうして21世紀の積極工作は、低リスク、高打撃で否認もしやすくなった。
その実験場として選ばれたのがエストニアやウクライナといった旧ソ連圏である。特に2014年2月にウクライナで大統領の辞任を求めた民衆デモが生じ、これに対する米国とEUの足並みが揃わなくなったことで、ロシアの付け入る隙が生まれた。ロシア情報機関は、ヴィクトリア・ヌーランド米国国務次官補とジェフリー・ピアット駐ウクライナ大使との電話会談を盗聴・録音し、そのデータをYouTubeにアップしたのである。
会話の中でヌーランドは「くそったれEU」と発言しており、これが米欧関係に亀裂を入れることになった。そしてロシア参謀本部情報総局(GRU)がサイバー空間上での偽情報工作とサイバー攻撃を開始、混乱を演出している間に、ロシアはウクライナ領であったクリミア半島をまんまと編入したのである。これは従来の軍事力に頼るやり方ではなく、外交と積極工作を組み合わせて領土を制圧するという離れ業であり、世界中から「ハイブリッド(混合)戦争」として注目されることになった。
盗聴やハッキングによって情報を抜き取り、それをネット上に晒すというやり方は、2016年の米国大統領選挙においても繰り返されることになる。この選挙中、ロシアの情報機関と繫がりを持つと見られるハッカー部隊が、米民主党のサーバーに侵入し、当時大統領候補であったヒラリー・クリントン氏の選挙対策責任者の電子メールを大量に入手して、これをネット上で公開することになる。
この時、クリントン候補に不利な情報と、それらを基にした多くの偽情報が流布されることで、大統領選挙の行方に影響を与えたものと見られる。そしてその実行部隊となったのは、インターネット・リサーチ・エージェンシー(IRA)という民間企業であるが、裏ではロシアの情報機関との繫がりが噂されている。
本書ではIRA職員の仕事についても触れられているが、それは何と毎日100本のフェイク(トロール)を書くことがノルマだという。こうしてサイバー空間においても、積極工作はロシアのお家芸となった。現在もコロナウイルスのワクチンをめぐる様々な偽情報が出回っているが、その一部はIRA由来のものとされている。
本書は100年以上にもわたるソ連・ロシアの積極工作や偽情報の歴史を赤裸々に描いており、その中には核の冬やエイズの話題もあって興味深い。そして何より驚くべきことは、これがサイバー空間においては現在進行形の話だということだ。我々個人は本書の描く現実を直視し、ネットリテラシーを高めていくしかないだろう。