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「谷崎潤一郎を超えて海外に通用する日本文学を書く」と宣言した異端作家・橘外男の濃密な世界

記事:幻戯書房

橘外男作品集3冊連続刊行完結(幻戯書房)
橘外男作品集3冊連続刊行完結(幻戯書房)

 このサイトを読んでいる方の多くは、橘外男(1894-1959)という小説家について、あまり詳しくご存じでないかと思います。亡くなったのは60年以上前(1959年)だし、新刊で手に入る単著は(少し前まで)ほとんどなかった。

 いや、実は私も、去年まで全然知りませんでした。が、いわゆるコロナ禍でなかなか外出しにくい中、ふとしたことで読み始めたら、あっという間にハマって、(この人は凄い、本物の小説家だ……)と圧倒された。なのでその「凄さ」をお伝えしたいのですが、さて、どこから紹介するべきか、と考えると悩んでしまう。それくらい書いた小説の幅が広いし、そもそも本人の経歴に謎が多い。

実は評価が高い名作、怪作の数々

 まずは恐怖小説。「蒲団」(1937)や「逗子物語」(同)といった作品は、日本怪談界の最高峰として、今でもホラー系のアンソロジーによく収録されています。クトゥルフ神話で知られるアメリカの怪奇小説家H・P・L・ラヴクラフトに、〈オカルトを信じる者が書いた小説の心霊描写は、唯物論者のそれに比べて怖くない〉というニュアンスの発言がありますが(「文学における超自然の恐怖」)、その意味では、橘外男という作家は霊魂の存在を信じていたらしいのに、本当に怖い。

 あるいは、怪奇・伝奇小説。「死の蔭探検記」(1938)、「陰獣トリステサ」(1948)、「青白き裸女群像」(1950)といった、題名からすでにおどろおどろしい異国を舞台にした「西洋講談」は、澁澤龍彥、種村季弘といった目利きからも高い評価を得る一方、いくつかは少年誌で漫画化(さいとう・たかを、池上遼一など)され、幼い読者に激烈なインパクトを与えたといいます。

 かと思えば、自伝小説。『私は前科者である』(1955)は題名の通り、若き日、模範囚として出所した後の就職活動体験を基にしたもの。執筆時まで伏せていた自身の過去を告白した上で、世間は一度でも懲役を受けた人間に対して冷たすぎる、これでは再犯率が高いのも当然だ……という著者の主張が込められていますが、自分の過去が周囲にいつかバレるんじゃないかという不安。それが現実化した時の崩壊感。掌を返したように冷たくなる人々の反応。何とかしてまっとうな仕事を得たいという足掻き。……だからこそ、時折触れる他人の優しさが、この上なく身に染みる。「安定した職なんて、どこにあるんだ?」という蟻地獄のような焦燥と絶望は、格差が広がる現代日本人の心理にも鋭く突き刺さる、不朽のプロレタリア青春小説です。

純愛物から伏字だらけの犯罪物へ

 でも元々は、純愛小説のベストセラー作家でもあった。これも自身の恋愛体験を基にしたという触れ込みのデビュー作『太陽の沈みゆく時』全三巻(1922〜23)は、当時の文豪・有島武郎の推奨も受け、全く無名の書き手ながらいきなり数十版を超える増刷に次ぐ増刷の大ヒット。当時の発行元(日本書院出版部)が出した新聞広告を見ると、

『太陽の沈みゆく時』広告/東京朝日新聞朝刊1922年12月23日
『太陽の沈みゆく時』広告/東京朝日新聞朝刊1922年12月23日

天下の読書界を震駭せしめ、青年男女白熱的喝采裡に迎えられし若き天才……今や讃歎の声高き本書の真剣味は、抱き上げて頬擦りしたいような仇気なさと可愛さに覚えず読者を恍惚たらしめるであろう(東京朝日新聞朝刊、1922年12月23日)

だとか、

真に大正年代に於ける記録すべき大傑作。しかも純真哀憐にして無邪気なる絶倒愛の讃美天下かくの如き熱烈人を動かす気品高き美しき小説ありや。白熱狂裡に人気沸騰(東京朝日新聞朝刊、1923年7月26日)

 といった仰々しいキャッチコピーが並んでいます。しかし一筋縄ではいかないのがこの作家。日本書院という出版社からはデビュー後、立て続けに6冊出しているのですが、その5冊目『艶魔地獄 一名或る死刑囚のグリンプス』(1925)は、凶悪な犯罪者を主人公にした伏字だらけの問題長篇。その新聞広告は。

『艶魔地獄』広告/東京朝日新聞朝刊1926年1月12日
『艶魔地獄』広告/東京朝日新聞朝刊1926年1月12日

本書を以て肉慾讃美暴行礼讃誨淫歓楽の書とのみ見るべからず
日本開闢以来過去現在を通じて否世界の古今を通じて本書の如き深刻凄惨なる暴戻酷薄の野獣性本能発揮と残忍無道なる淫虐歎美の書は亦とあるまい……大胆にして鬼気真に迫る霊圧的描写は新進作家の企及し得ざる巨腕を示して少なからずも内務検閲官を惑乱せしめ進んで天下の読書子を驚倒せしめずんば止まず。(東京朝日新聞朝刊、1926年1月12日)

「抱き上げて頬擦りしたい」ような青年純愛作家が、いきなり「日本開闢以来」未聞の極悪犯罪小説を書いたというのですから、ギャップが大きすぎて混乱してしまいます(当時の読者はどう受け止めたのでしょうか)。

読み継がれてほしい、橘外男の世界

 怪談から自伝小説、純愛物から犯罪物まで……あまりにも幅が広い橘外男の作風は、一冊だけでは掴みがたい。そのためでしょう、これまで橘の傑作集は二回、出されています(中島河太郎解説『橘外男傑作選』三冊、1977年/山下武監修『橘外男ワンダーランド』六冊、1994〜96年)。それらを読むうち、未だ本になっていない知られざる傑作が多数存在することが、私にもわかりました。

 そこで今回、入手困難な作品を集め(ほぼすべて初書籍化)、「創作実話篇」「自伝物語篇」「満洲残影篇」という三つのテーマで、三冊を編んでみました。収録作はいずれも、先妻の病死を題材にした怪奇物、作家デビューにまつわるユーモア物、GHQ占領下の1949年に発表されたきわきわの政治物など、いずれも一癖ある――橘外男にしか書けない――ものばかり。

 特にこだわったのは、自伝物語篇『予は如何にして文士となりしか』。橘の遺作は『ある小説家の思い出』という自伝超大作だったのですが、あまりにも細かく書きすぎて、なんとまだ二十代、小説家になる前の時代を描く段階で、作者の死去により中絶。そこで少年期から晩年まで、その他の自伝小説を集め、「これを読めば橘外男が書きたかった来歴がだいたい掴める」という一冊を目指しました。資料も沢山収めているので、まずはここからでも読んでいただきたいところ。

 ところで本企画の刊行中、ある読者の方から、「未収録作といったマニアックなものだけでなく、代表作も手軽に読めるようにしてほしい」という要望をいただきました。それは仰るとおりで、少なくとも「蒲団」を始めとする名作は、文庫化されるなどして今後も読み継がれてほしい、と私も思います。

 晩年近く、橘外男は次のように発言しています。

僕のこれからの仕事は、あらゆる世界の人間に読ませる国際的規模を持った小説を書くことだよ。例えば〔谷崎潤一郎の〕春琴抄はなるほど日本においてこそ名作だが、外人にはまったく判らんだろう。そこで外人が読んでも判る日本の小説、これが書いてみたいんだ。それが成功したら僕も筆を執った甲斐があると思っている。(並木行夫「小説橘外男」1952年)

 川端康成がノーベル文学賞を受賞したのは1967年、著者の死去より8年後のこと。また『春琴抄』はじめ谷崎作品のいくつかは英訳もされました。世界に通用する小説を書く、と言い放った橘の野心は果して、成功したかどうか?

 少なくとも、暇さえあれば読み耽ったという世界地図や海外記事をタネにした作品のスケールや、コッテリした饒舌体、絶体絶命の境遇をくぐり抜けてきたからこその破格の生命力には、今でも引き込まれます。どれだけ悲惨で救われない話でも、読んだ後には何か、世界の深淵を覗き見たような、得体の知れない力が湧いてくる。

 こういう不思議な人がいたんだ、ということを、ぜひ知っていただきたいのです。

(幻戯書房編集部・名嘉真春紀/引用文はすべて『予は如何にして文士となりしか』巻末資料編所収)

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