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コロナ時代の「現成公按」(上)――公と按(平等性と唯一性)、ふたつのリアリティに開かれる道とは?

記事:春秋社

原著 “Realizing Genjokoan――The Key To Dogen’s Shobogenzo” (Wisdom Publications, 2010)と本書
原著 “Realizing Genjokoan――The Key To Dogen’s Shobogenzo” (Wisdom Publications, 2010)と本書

英語で説かれた道元禅の、魅力とは?

 このたび、奥村正博(おくむら・しょうはく)師が英文で書かれた“Realizing Genjokoan”という本を、日本語に訳し、『「現成公按」を現成する』と題して上梓した。原著は2010年にアメリカ・ウィズドム社から発刊されたもので、すでに世界的に評価が高く、独・仏・伊語にも訳されている。

 奥村師は1948年大阪に生まれ、197022歳のときに内山興正(うちやま・こうしょう)師(19121998)について曹洞宗僧侶として出家得度、1975年の渡米以来、30年以上にわたって欧米人とともに禅修行に勤めてこられた。すでに多くの英文著作、欧米人僧侶の弟子を持たれている。

 この奥村師(以下「著者」)が、日本曹洞宗の祖・道元禅師(どうげんぜんじ:12001253)の主著『正法眼蔵』のなか、最も有名な巻である「現成公按」巻を、欧米の、仏教に親しみのない人々にも理解できるよう解説・講読したものが本書である。

 だからこの本は、日本では「わかったつもり」で通過してしまいがちな「縁起」「無常」「無自性」「空」などの基本的仏教用語の一つ一つまでを、分解し、わかりやすく再構成することによって、いままで思ってもみなかった非常に新鮮な読解を示してくれている。

訳した時期との呼応性

 この本を私が訳したのは、ちょうどコロナ禍で非常事態宣言が発令され、自分のお寺に蟄居を余儀なくされているときだった。朝から夜中まで翻訳に向かっているさなか、私はこの本の内容に何度もはげしく驚いた。私が驚いたのは、もちろんこの原著の読解自体がすばらしいということであったが、もう一つ、「2010年に出された本が、なぜ現在のコロナ時代の問題を、こんなにも明確に指摘してしまうのだろうか」ということであった。私には、“Realizing Genjokoan”が、現在のコロナ禍を予見し、しかもその問題を根底的に解決する手段をも示した本に読めてならなかった。それは自分の思い過ごしかとも考えたが、おそらくそうではない。

 私たちの生は、個人的・特殊的であるのと同時に、すべてのものとつながり、全体的・平等的なものとしてある。

 この現実を、著者は ‘reality of life’ と呼ぶが、これはその師匠である内山興正師が「生命の実物」と呼んでいたありようを指す(翻訳にあたってはこの言葉に還元した)。

 著者によれば、道元禅師の言う「現成公按」、特にその「公按」は、「すべてのものの平等性⦅公⦆と、個々のものの唯一性や個別性⦅按⦆との両方の意味が述べられている」ものであるという。その上でつぎのように言う。

もし自分をただ独立した個人であると考え、他人のことを考慮しないということになれば、私たちは他人との協調のうえに生きていくことはできなくなります。かといって、もし個人性を集団よりも価値の低いものと考えれば、それもまた健全な考えではないでしょう。(中略)この二つの極端な考えは、一つの生命実物を誤って見ているという点において、ともに病的なのです。生命実物では、私たちは独立した、唯一無二の個人として生きているとともに、集団全体の一部として、他の人々とも生きているのです。健全であろうとすれば、この真実の両側面のうちに生きていかなければなりません。(本書26~27頁)

 この「真実の両側面のうちに生きること」、「公按(平等と差別)」という「生命実物」の両方をともに「現成」することが、「現成公按」の意味であると著者は述べている。

二項のバランス

 これが本書の核となる内容であるのだが、一方、今回のコロナ禍で私たちは、まさしくこの個人と全体について考えざるを得なくなった。さらにそれに連続する問題系として、人間(文明)と自然、特殊と普遍、資本と共有財などについても考えることを迫られた。著者が示す「生命実物」の「公按」のありように、いままさに問題になっていることがらが重なるようになったと思われるのだ。実際に、生物学者・福岡伸一氏は最新刊の『ポストコロナの生命哲学』(集英社新書、2021年)で、つぎのように述べている。

私たちはまずピュシス(ギリシャ語で自然の意:引用者注)としての生命であるわけですが、ピュシスの現実をロゴス(ギリシャ語で言語・論理の意:同)でコントロールしつつも、コントロールしきれないピュシスが常にもれ出してきて私たちを脅かします。新型コロナウイルスは、そのことを私たちに思い出させてくれたと言えるかもしれません。(中略)/本来、人間が選び取ったのは、ロゴスを求めつつもピュシスに従う生き方です。社会がロゴスによって完全に制御された方向へ向かおうとしている今だからこそ、ロゴスとピュシスの狭間にある人間のあり方について深く思いをめぐらせるべきでしょう。(同書43~44頁)

 ここで福岡氏が言うピュシスとロゴスは、本書が示す「公」と「按」にきれいに重なりあう。福岡氏はさらに、「迷いつつもバランスを取りながら、この(ピュシスとロゴスの)相克を進んでいくしかない」(同書131頁)と述べ、「ピュシスを正しく畏れる」こと、「自由を手放してはいけない」ことを提示している。

 一方で、本書において著者は、「公」と「按」のバランスを取る実践の要となるのがほかでもなく「坐禅」であり、道元禅師が伝えた修行実践であると示している。だが、なぜ、坐禅なのか。(次回につづく)

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