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なぜ生命は尊いのか 中村元「シリーズ構造倫理講座」

記事:春秋社

連鎖の網
連鎖の網

 わずかに西洋の法学において「能作因」に近い観念が成立した。西洋のことに法学においては、 ローマ以来 can ans と causa sine qua non とを区別する。この二種の観念は、仏教における 「因」と「縁」との区別に近い。しかしこの場合 causa sine qua non は、経験され知覚される範囲内において結果の成立に影響を及ぼし得たものだけに限られている。ところが仏教によると、 宇宙におけるすべてのものが「縁」の中に含められ、あるいは説一切有部せついっさいうぶにおける「能作因」のなかに含められる。宇宙における一切のものが何らかの意味で原因となっているという見解は、 西洋では近代科学において初めて認められたものである。仏教は近代科学とまったく無関係であったにもかかわらず、この点では共通の思惟方法を認めることができる。そうして科学は知覚され得るもののみに限って論ずるのであるが、仏教はさらに原理的な立場に立って、単に知覚され得るものばかりでなくて、考えられ得るあらゆるものについて連鎖の網を考えるのである。その 範囲は限定されていない。そうしてそこまで思いを馳せることが、真相をとらえるゆえんではなかろうか。

 こういうわけであるから、人格の独自性ということは、それぞれの人が受けている無限に多くの原因・条件が異なったものであるということによって初めて説明がつく。もしもそれらの諸原因・諸条件が内容的にまったく同じものであったならば、どの人もまったく同じすがたのもので、 同じ顔をしていて、差異はないことになってしまうであろう。

 しかし、いかなる点でもまったく同じ二人の人というものはあり得ない。同じ父母から生まれた兄弟でも、種々の点で相当に異なっていることがあり得る。いかなる人も独自の存在であり、 他人と代えることのできないものである。それは眼に見えない過去から受けているものが異なるからである。

 人が遠い過去から受けている無限のはたらき――これを仏教では〈恩〉ということばで表現している。われわれはありとあらゆるものにはぐくまれているのである。

 眼に見える、可視的な経験界においては、人は代置され得るものである。他人をもって代えることができる。現実の、見える世界においては、個人は、幾人かの定員のうちの一人である。昔の軍隊には「員数」ということばがあったが、現代の官庁や企業では「定員」ということが問題 になっている。個人は定員をみたす一つの単位にすぎない。

 ところが眼に見えない世界にまで思いを馳せると、それぞれの個人が、絶対に独自の、、、、、、無限の過去を背負っている。何年何月何日にどこそこで生まれ、どこそこで生活して、その独自の過去を背負っている人というものは、ただ一人しかいない。

 そこで人間の個性も一人一人ちがって来るのである。

 絶対確実に存在していたが、しかし現在の「われ」が忘却している過去を想起し、たどるならば、ただ一人しかいない「われ」の意義が明らかになる。その視点からすれば、はじめて「唯我独尊」ということが言える。もしも可視的な手段で計量され得る領域において、つまり個人が代替され得る領域において「唯我独尊」といったならば、それは思い上がりもはなはだしい、独善になるのである。しかし可視的な、計量され得る領域を越えるならば、そうしてそれぞれの個人を支えている無限の深みに思いを馳せるならば、いかなる人も「唯我独尊」であって差し支えない。

 以上の道理は、未来を形成することについても言える。未来の世の中は多勢の人々の協力によって形成されるのであるが、甲なら甲という人だけがなし得る独自の「未来形成のはたらき」がある。それはまた乙という人だけがなし得る独自の「未来形成のはたらき」とは異なったものである。

 われわれ一人一人の個人は、可視的な、計量され得る世界においては、員数をみたす一つの単位であるにすぎないが、独自のしかたで全宇宙を含んでいるという点で、まったく独自のものである。この境地に立ってはじめて、一人一人が「尊い」ということが言えるのである。

 この心がまえは、人生における実践に喜びを与えてくれる。金銭、地位、名誉というようなものは、計量され得るもので、他人と代置され得るものである。ところがその人独自の活動、はたらきというものは、代置され得ない。

(『構造倫理講座Ⅲ 〈生命〉の倫理』pp.78-80より)

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