ネガティブにもポジティブな人の存在。それは、共有可能性を秘めている。 『生なるコモンズ』(上)
記事:春秋社
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ふだんの何気ない出来事で、お互いに溝が出来てしまうことがあります。そうした溝は人との間だけでなく、自然、生きもの、つくられたものに対しても例外ではありません。行き過ぎたふるまい、異なる文化、宗教、国への偏見や思い込みから緊張、断絶、紛争、破壊などが生じていきます。プライベートでも、広い世界でも、わたしたちは、様々なレベルの軋轢を経験しながら生きているのです。
どのレベルの問題がわが身に降りかかっても大丈夫! 解決できる! という人はいないでしょう。プライベートが順調でも、社会や国の情勢にふりまわされたり、逆に、身の周りは比較的安定していても、日々の人間関係がぎくしゃくしたり、気づかないうちに憂いが蓄積していることもあるのではないでしょうか。
そうした日々を乗り越えていくためには、ある種の自己防衛のようなことが必要になります。どうにもできないことを棚上げしたり、蓋をしたり、何か別のことに想いを向けたり……。そうした微力に感じられていた自分という存在も、自覚することなく思いがけない影響を人や環境、社会に与え、いつの間にか傷つけてしまっているかもしれません。わたしたちは、こうしてほんとうに正しいことを見出そうとするより、自己正当化の安易な誘惑にかられがちなのです。
それでも人は、無視や忘却、否定ではない、何か違った光景を垣間見ようとすることができるのではないでしょうか。世にあふれているイメージ、言葉をたんに増幅することでは表せない、あらたな何かを。そうしたこころの交差路にわたしたちは生き、新たな物語、音楽、パフォーマンスを生み出しています。
すぐには解けない問題が、厳然と目の前にのしかかっています。それゆえ、人として、それらを解決してくれる何かをわたしたちはこころの内奥で、ひっそりと探し求めているのではないでしょうか。無視、否定、忘却、非難、紛争、戦争、そして、死すら、問題解決にはならず、探求するこころは続くのです。
『生なるコモンズ』に取り組み、タイトルも決まっていないうちから考え続けたのは、こうした人間存在のありようでした。
今まで生きてきて、時代の転換点は歴史で学ぶもので、自身の転換点は後になって振り返るものだったかもしれない。それが、これまでにない変容の只中にある気がしてならない。そういう想い、実感のなかで、これまで使ってきた言葉を新しい意味でとらえなおし、得心できるようにしなければならない。様々な場で、揺れ動いている大事な何かを、抑圧、阻害してしまわないような言葉が必要とされる機会が増えてきている、と感じるのです。
要するに、こう考えておけばいい、これが答えだ、というあらかじめ用意された当てはめのロジックでは解くことのできない事態が波のように押し寄せ、わたしたちを覆っていきます。にもかかわらず、皮肉なことにオンライン・デジタル化はますます進み、即時的対応が求められるばかり。
だからこそ、わたしたちは分野、ジャンルを越えて、なぐさめや手がかりになりそうなものを探っていくのです。こころのこもった歌、世界中の映画やドラマ、果敢に表現された現代アート、評価が定まった名画の知られていなかった魅力、想像を超えるほどのアスリートの活躍……というように。
これまで経験してきたあらゆる問題がぽっかりと口を開け、わだかまりの深淵が解かれないままに置かれるとき、わたしたちはまだない世界を想像力で一生懸命、垣間見ようとします。その奥で生動する潜在力こそ、真に新しい局面と展開をつくり出すものではないでしょうか。
人が人であるゆえにこそ有している、離れがたい属性。それはかけがえのないものにちがいありません。
トルストイが『アンナ・カレーニナ』で示唆しているように、限られた人の間で経験される恋、愛、友情、家族の葛藤の問題とその解決の難しさが、世界規模の問題とその解決の難しさにつながっているならば、その逆も言えるのではないでしょうか。そこでは、それぞれのレベルの問題に集中して個別に考えるだけでは、事足りない。
本書では、人の存在を、どこかの一点で生まれ、この世界にある要素として生き、どこかの一点で命を終えるものとはみなしていません。関係性を営む存在としてとらえています。それゆえ大事な友や家族を失ったときにも、人は点として残されるのでなく、何かに関係しようとしています。この、いわく言い難い、うごめいている存在にニュートラルな言葉を与えるなら、「動く関係性」といえるでしょう。
人は、わたしという一点から関係性をつくっているのではなく、わたし自身がすでに動く関係性なのです。一点に思えている「わたし」、それ自身もゆれ動いていくのです。
自分や他者のことを、ある要素として点のようにみなし、この世界からいつか消えてなくなる存在と考えたり、都合悪いことを忘却したり、濁流のように世界、人生を見たりするだけでなく、わたしたちのこころに浮かぶ心像は、もっと奥深く別の部分にもふれているのではないか。そうだとしたら、早くそのことに気づきたい。
こうして、自分とは何か、人とは何か、を考えるようになるのではないでしょうか。
人生には、以前親しかった誰か、熱中した何かと、どうしても隔たりができ、埋まらないときが生じてくるように思います。
本書の関心は、わたしたちのこころには、そういうときにこそ、もっとも興味深い潜在力が生動し、ときに小さく、ときに大きく、この世界を真の意味で楽しく良き方に変えていくという、ささやかにも大胆な希望にあります。
この生動する潜在力に備わっている特徴を、本書では、「共有可能性」と呼ぶことにしました。
共有はいいことばかりではありません。核共有などという異様な言葉も使われています。情報共有も、誰かの特権ばかり認め、何かを傷つけたりするなら、良いことにはつながりません。杓子定規な共有でなく、可能性のある共有とは何かが問われています。
こうして第Ⅰ部を「共有可能性と人」、第Ⅱ部を「生なるコモンズと共有文化、共有文明」として、共有可能性領域を求め、生動するコモンズの将来像を描いたのが本書です。