ディストピアにも甦る人文学。それは人を深め共有可能性へと誘う。 『生なるコモンズ』(下)
記事:春秋社
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――(担当編集者)わたしたちが生きる社会、それはどのようなものでしょうか。一見すると、デジタル化によって個性を失い、細分化や幾層もの格差によって分断化が進んでいるように思われますが、それを超えていく智慧はいかなるものでしょう。現代という複雑で多様な世界をとらえるには、必ずしも一つの分野では事足りません。関係する諸分野に目を配り学際的に追究していくことが求められますよね。
今日、多くの研究者は、複数のテーマやプロジェクトに関わって仕事をしています。しかし、研究者だけでなく、現代人は、多かれ少なかれ、仕事、生活において様々なテーマ、関心にかかわって過ごしているのではないでしょうか。
そうした仕事、日常は、互いに分断されているのではなく、じつは、深いところ、意外な位相でつながっている。そのために、矛盾、衝突のみならず、新たな関係性が広がる可能性も生じてくるといえないでしょうか。
ここに人文学の可能性を重ねることができます。
いくつもの分野の言葉をつなげていくと、分野を貫いて一定の意味をもって通用できる表現が必要になり、日常用いられている言葉に新たな意味を込めながら、考えていくようになります。
各分野で論文として成立したものを出会わせるなかで、動く関係性、共有可能性、五つの存在(自然、生きもの、人、つくられたもの、人知を超えるもの)、生なるコモンズのような特有のキーワードが立ち上がり、深い意味を帯びるにいたりました。
――日本文化、比較宗教文化、文明論等に関わり、研究、教育に携わってきた著者が、それぞれの専門誌に掲載された論文を書下ろしのかたちで全て平易な読みやすいものに仕立て、新たに独創的内容を含めて本の体裁に仕上げていったのが本書ですね。
人文学は、自らの頭や心身を使って、自由に、多様な分野の知と成果を合わせて考えることが許される学問です。考え、思いをめぐらせることは楽しい。人文学の世界は、自分が考えることなど取るに足りない、大したことはない、と抑え込んでしまうこととは逆の世界です。
このような、広い意味での人文学的な雰囲気から様々な試み、作品、文化が生れてくるのではないでしょうか。
スマートフォンを常用し、自分や他者を大切にしようと願い、ときにこころで神や仏に祈ったりするなかで、現代人は、テクノロジー、人、人知を超えるものの間を揺れ動き、自己を見失ってしまいがちです。
自分が考えていることは、周囲の状況や膨大なデータによって、そう考えさせられているだけかもしれない。それなりのこだわりや決心をもって判断したことも、どこかで間違っていたかもしれない。そんな不安が胸をよぎることもあるでしょう。
けれども、AIにせよ、自らにせよ、さらには、わたしたち人が思い描く限りでの神や仏にしても、そのアウトプット、判断、お告げが100パーセント正しいということはなく、正しさが何かということも、なかなか分からないことが多いのではないでしょうか。
だからこそ、問いを続けていきます。問う自由は、誰にも、何にも、うばわれてはならないものなのです。
――本書には、ハラリ、西田幾多郎、空海、朱子と李退渓(イ テゲ)と江戸儒者たち、賀川豊彦、シヴァ、べニュス、ブルントラント、オストロム、ジェフリー・サックス、カズオ・イシグロ、アッシジのキアラとフランチェスコ、ピケティらの思想が次々と登場します。それらが交響和音のように響き重なり合って人の存在、文化、文明について考察を深めていきます。が、それらがこの本の全てではありませんね。
実際、この原稿に取り組んでいる最中、師友(しゆう)といえる方々との間で人文学の可能性をめぐる対話が続いていました。貴重な話や重要な教え、ご示唆をくださった方々は、多くの分野、世代、国にまたがっています。そして、今は亡き先人たちからも多くの教えを乞うています。本書には直接には現れない、背後にある声にも耳を澄ませて共有可能性の世界を提起したいのです。
ある音楽を聴いて他の曲を、ある絵から他のアートを思い浮かべ、潜在力がかき立てられて想像がふくらむことはよくあることですよね。この本を手にして下さる方が、本書では取り上げていない思想家や作品、出来事をこころに思い起こし、共有可能性の行方を共に考えてくだされば、共有の思想は深まりを見せていくことでしょう。
本書では、人が計算やデータで表される存在にとどまらない理由、非アルゴリズムの特徴を帯びるわたしたち自身から共有可能性が立ち上がり生滅する様相、先人たちの素晴らしい精神遺産、文化・文明のあり方と行方を、議論を外に開くように叙述することに苦心しました。
それぞれの分野に耳を傾け、妥当と思われる知と対話しつつ考察しています。そこには、わたしなりの選択、判断が入ってきますが、同じ知に接しながら異なる判断もあり得るものとして、議論の深みを念頭においているのも、本書の性格の一つです。
――人という存在が、何を考え、判断し、行動していくのか、それは現在のコモンズをかたちづくる存在でありながら、未来をも託された存在というところでとても重要です。不思議さゆえに危うい存在でもあり、幸運をも悲劇をももたらし得ることを意味します。そうしたなかで、新たな良き局面を生み出す潜在力を醸し出す方途はないだろうか。その手がかりとなる力を、この本では描いていますね。
それを、共有可能性の想像力、とこの本では表現しています。
ディストピア(反理想世界)をまざまざと表現、記録、回想し、受けとめるこころにすら、この想像力は働いており、思考の手がかりを与えてくれるように思われます。
わたしたち一人ひとりが生物学的な死を迎えても、その思考のかけら、思想の余波は大洋のひとしずくのように響き渡っていることでしょう。
本書は、人の存在を、AIなどで代替できないものと考え、その理由も論じていますが、人文学にとってもサイエンスにとっても、この力は、今後、大きな研究課題として、ますますクローズアップされてくるように思えてなりません。
わたしたちは多くの問題を抱えていますが、先人たちの智慧に学びながら、問題自体を新しい局面、展開へと昇華させ、これまでにない解決の道を模索していく力が、誰にも潜在している。そうしてみると、決定論的でない未来が予感されてきます。様々な場で、生なるコモンズ(生動する共有可能性領域)を見出していくことになるのではないでしょうか。
以前話し合い、一生懸命に考え抜いたけれども不可能だった問題が、新たな答えを待ち続けていると気づくきっかけになれば、本書にとって、これほど幸いなことはありません。