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シャーマニズム・ゆるやかな情緒・新新宗教 韓国と日本の宗教を考える 紀伊國屋書店員さんおすすめの本

記事:じんぶん堂企画室

韓国は国民の三割近くがクリスチャンであり、戦後世界で最もキリスト教化が進んだ国である(「キリスト教とシャーマニズム」より)
韓国は国民の三割近くがクリスチャンであり、戦後世界で最もキリスト教化が進んだ国である(「キリスト教とシャーマニズム」より)

 最近、知人に勧められて「梨泰院クラス」というドラマを見ました。韓国の梨泰院(イテウォン)という繁華街を拠点に、主人公のセロイと仲間たちが「タンバム」という居酒屋を経営する物語です。

 もしこのドラマを漢字一文字で表すなら、「信」という字ではないでしょうか。主人公が終始一貫して妥協しない信義、家族や友に対する厚い信頼、そして絶対に復讐を果たすという固い信念。私にとってこのドラマの主人公は、「信」という字が示す様々な側面を体現しているように見えました。

 さて、そこで気になるのが、現実の韓国社会における「信」の実態です。現代の日本社会ではあまり見られないこの濃厚な「信」の存在が、どのように韓国の人たちに共有されているのか。日本とは決定的に違う要素が韓国にはあるのだろうか。そんな疑問を抱きながら出会った本、『キリスト教とシャーマニズム なぜ韓国にはクリスチャンが多いのか』(ちくま新書)を紹介します。

韓国にクリスチャンが多い理由

 そもそも儒教文化圏であった朝鮮半島では、貞操観念や血縁関係を重視する文化が共有されていました。性を家庭内に留めるべきものとし、父母や祖先を敬うことに大きな価値を置いていたのです。そうした儒教に対し、キリスト教は対照的です。超越的な神の前で隣人を愛するように訴えるキリスト教の普及が、儒教では抑圧されていた女性や子どもの権利向上を後押ししました。そうした朝鮮半島における価値観の大きな変更を可能にしたものこそ、人々の生活に根付いていたシャーマニズムであると著者は述べています。

 朝鮮半島の人々にとってシャーマニズムは、日々の生活を支える祈りの儀式として定着していました。「クッ」と呼ばれる儀礼を行うシャーマンは、感情豊かな歌と踊りを人々の前で披露します。人生における恨みや悲しみ、祝福や祈願にともなう感情を、シャーマンが「クッ」を通して演劇的に表現する。人々の生活に根ざしていたシャーマニズムを取り入れたことで、キリスト教は朝鮮半島で普及していったのです。

 そうした経緯もあって、人口の3割が信徒である現代韓国のキリスト教では、信仰者の集会が熱狂的に盛り上がります。シャーマニズム的な手法を教会での説教に取り入れたことで、信徒の感情に強く訴えることに成功したのです。この「土着化」したキリスト教に対して著者は、かつて馴染むことのできず距離を置いたはずのシャーマニズムにキリスト教徒となることで出会い直したようだ、と皮肉交じりに語っています。

 シャーマニズムという土台があったからこそ、韓国における独特なキリスト教の需要へと結びついていった。では、翻って日本はどうでしょうか。日本の宗教の実態を改めて考えるための、ヒントとなる2冊を紹介します。

情緒にもとづく日本の宗教

 日本人の多くは神道の神社をお参りし、キリスト教のクリスマスパーティを催し、仏式によって故人を弔います。こうした外形的な行動が内面的な信仰よりも優先される行動に、私たちは自然と馴染んできました。

 『宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで』(中公新書)では、「宗教」という言葉の意味を拡張することで、こうした無宗教ともアニミズムとも形容されがちな日本人の宗教観が分析されています。本書に則して、日本人の「宗教」を再定義するために必要な、「信仰」·「実践」·「所属」のあり方を順に見ていきましょう。

 まず日本人の「信仰」といえば、その曖昧さが知られています。体系的な教義がなく天国や神に対する実感はとても薄い。一方で初詣や神社の宗教行事を身近に感じ、あの世を意識して死者に思いを馳せる。「信じる」と言い切るまではいかない、「ゆるやかな情緒や関心を基調とする、信仰なき宗教」と言うことができるでしょう。

 次に「実践」の例として挙げられているのは葬式です。そこで多くの人にイメージされているのは宗教的な儀礼ではなく、「故人をきちんと弔った」という実感ではないでしょうか。まさに、「死者への思いという漠然とした情緒に基づいて葬式は実践されているのである」。

 そして「所属」の例としては、神社が挙げられています。私たちにとって神社は公共性を帯びた場所、地域コミュニティの象徴の場としての機能を果たしています。そこに宗教儀礼は無くとも日本的な普遍性がある、そんな意識が共有されています。だからこそ地域に暮らす多くの人々が、「どの神社に対しても、漠然とした所属意識を持てる」のです。

 以上のように、情緒的な「信仰」·「実践」·「所属」こそが日本的「宗教」を構成している。そうした観点を持つことで、日本のあいまいな宗教的現象を、「宗教」の名の下に語ることができるのです。

「新宗教」と「新新宗教」

 続いて紹介したいのが、『ポストモダンの新宗教 現代日本の精神状況の底流』(法蔵館文庫)です。この本では、現代の日本社会と宗教がどのような関係を持っているのかが論じられます。

 まず「新宗教」という言葉です。本書によればこの語は、19世紀以降に誕生した新しい宗教団体を指し、歴史の長いキリスト教や仏教やイスラームといった世界宗教とは区別されます。そんな「新宗教」と呼ばれる教団は主に、庶民のための相互扶助という特徴を持っていました。多くの人が貧しい生活を送っていた時代では、人と人のつながりや助け合いが不可欠だったからです。

 時代が下り戦後になると、豊かな消費社会が日本に訪れます。個人ごとの生き方が尊重され、他人とのつながりが希薄になっていきました。「新宗教」の時代には日々の貧しい生活を助け合うことが求められていたのに対し、この時代は個人主義的な傾向が重視されていきます。1970年代以降の、こうした傾向の変化に合わせて誕生した教団を「新新宗教」と呼びます。

 以上のことから「新新宗教」は、相互扶助として機能する「新宗教」とは異なり、閉鎖的な「隔離型」か、自由を重んじる「個人参加型」に別れてしまうケースがあるようです。ただいずれにせよ、「「旧」新宗教と比べてみると、新新宗教は現世(現代社会)の秩序や人間関係に親しみが薄いものが多」く、「そこには「空しさ」の感情が漂っている」と著者は分析しています。社会が変化するなかで、豊かな物に囲まれても決して満たされることのない心の空洞が「新新宗教」の救いの対象となったのです。

 韓国にしろ日本にしろ、時代と共に変化を遂げてきた宗教の土台には、過去から受け継がれてきた信仰があります。そうした背景を知ることは現代を生きる私たちにとって、現在の宗教や社会や文化を深く理解することにつながります。ドラマから始まり、回りまわって韓国と日本の宗教を考える。こんな行き当たりばったりな読書ができるのも、多様な文化を享受し理解することができる現代社会の恩恵なのかもしれません。

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