1. じんぶん堂TOP
  2. 文化・芸術
  3. SPレコードが開く歴史の扉 『コルトー=ティボー=カザルス・トリオ――二十世紀の音楽遺産』[上]

SPレコードが開く歴史の扉 『コルトー=ティボー=カザルス・トリオ――二十世紀の音楽遺産』[上]

記事:春秋社

フランソワ・アンセルミニ+レミ・ジャコブ著 桑原威夫訳『コルトー=ティボー=カザルス・トリオ』(春秋社)
フランソワ・アンセルミニ+レミ・ジャコブ著 桑原威夫訳『コルトー=ティボー=カザルス・トリオ』(春秋社)

 20年ほど前、オーディオ・レコード研究家の新忠篤氏が神田淡路町で開催していたミニコンサートで、コルトーの初録音を聴かせてもらった。1900年代初期に伝説のソプラノ歌手フェリア・リトヴィンヌ(1860-1936)の伴奏を務めたレコードのCD復刻で、曲名はもう覚えていないが、キラキラしたコルトーのピアノに強い印象を受けた。

伴奏者をめぐる真贋論争

 本書第7章に、コルトー、ティボー、カザルスの3人のうち、最初にレコードのレーベルに名前が載ったのはティボー(1905年)だとある。リトヴィンヌがコルトーの伴奏で1902年12月29日に録音した8面のレコードには、伴奏者の記載がないからだ。

 本書では触れられていないが、これらのレコードは翌1903年、グノーの2曲を加えて、すべて吹き込み直された。そのうちの1枚が手元にある。この盤のレーベルには伴奏者コルトーの名前が入っている。そのまま鵜呑みにすれば、最初に登場したのはティボーではなく、コルトーということになるが、SPレコード・コレクターの間では、再録盤の伴奏者は実はコルトーではないという何ともややこしくも有力な説がある。

 伴奏者をめぐる真贋論争において懐疑派が根拠とするのは、1903年の録音風景とされるグラモフォンのスタジオの白黒写真だ。そこには集音ラッパの横に仁王立ちするリトヴィンヌと、高い台座の上に据えられたアップライトピアノに向かう女性ピアニストが写っている。しかしこれとて、コルトーが駆けつけるまでのリハーサル風景と強弁してしまえばそれまでだ。

フェリア・リトヴィンヌ(ソプラノ)
マスネ『泣け、泣け、わが瞳よ』
仏G&T片面盤、1903年、パリ録音
フェリア・リトヴィンヌ(ソプラノ) マスネ『泣け、泣け、わが瞳よ』 仏G&T片面盤、1903年、パリ録音

ワーグナーに明け暮れた若い日々

 コルトーはリトヴィンヌとバイロイトで知り合い、しばしば演奏会で彼女の伴奏をしていた。ロシア・サンクトペテルブルク出身のソプラノ歌手リトヴィンヌは1899年、名指揮者シャルル・ラムルー(1834-1899)がフランスで初演したワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』でイゾルデ役を見事に演じ、高い評価を得ていた。

 彼女の兄で興行師のヴィリー・シュッツは、楽劇『神々の黄昏』のフランス初演に向けて準備に取りかかっていた。そこにラムルー急逝の知らせが舞い込み、後継者の選定が急務となった。シュルツは熱心なワーグナー信奉者で才能豊かな新進音楽家コルトーを口説き落とし、2人でバイロイトに赴いてコジマ・ワーグナーから『黄昏』の初演と『トリスタン』の再演の許可を得た。パリではグレフュール伯爵夫人が後援を快諾し、資金集めの手助けをした。

 2つの演目を交互に上演する全15回公演が1902年5月15日、パリのシャトー=ドー劇場で初日の幕を開けた。公演は新聞評で絶賛され、リトヴィンヌもブリュンヒルデ役とイゾルデ役で大成功を収めた。こうしてコルトーは『神々の黄昏』のフランス初演を果たした指揮者という輝かしい栄冠を手にした。

 しかし公演が10回目を迎えたとき、公演の成功を信じて疑わなかったコルトーに不測の事態が訪れる。パートナーであるシュッツが理想の舞台空間を求めて、劇場の改築を手始めに、採算度外視で発注を乱発したツケが回ってきた。この壮大な公演は経費が回収できないばかりか、赤字が壊滅的な規模に膨れ上がり、もはや続行不可能なことが明らかになった。

 コルトーは金策に奔走するも必要額に遠く及ばず、公演中止を余儀なくされた。散財の張本人シュッツは雲隠れし、後には巨額な負債だけが残った。破産宣告か、借金返済か。若さ故の冒険心に駆られた血気盛んなコルトーは「親から受け継いだ不撓不屈のドン・キホーテ魂」から、破産という屈辱的な敗北は認めず、借金返済の道を選んだ。

指揮の借金はピアノで返す

 ここで改めて手元の1903年盤を聴いてみる。リトヴィンヌの素晴らしい歌唱に比して、ピアノ伴奏は至って凡庸だ。とてもコルトーとは思えない。レコード会社としては、日進月歩で進化する録音技術を投入し、ワーグナー歌手の名声をほしいままにしたリトヴィンヌと、『黄昏』の初演で名を上げたコルトーの組み合わせにふさわしい再録盤を企画したのだろう。

 一方、新進指揮者コルトーは1903年4月にパリで『パルジファル』抜粋を上演したが、演奏の許可をめぐって生じたコジマ・ワーグナーとの悶着に嫌気が差し、数年ぶりにピアノ練習を再開していた。そしてこの年から1912年まで、国内はもとより、ヨーロッパ各地で夥しい数の演奏会を開いて借金を返済した。過密な公演スケジュールの中で、リトヴィンヌとの録音の日程調整も難航したに違いない。

 その上、レコード産業はまだ揺籃期だった。レコードがアーティストにとって、収入の重要な柱になるのはずっと先のことだ。是が非でも金を稼がなければならなかったコルトーが、当面の収入源であるピアノ演奏活動を最優先したとしても不思議ではない。そこでレコード会社は窮余の策として、先述の写真に写っていた女性ピアニストを代役に立てたというのが、1903年盤の伴奏者をめぐる真相ではなかろうか。

[下]今だから楽しく聴けるSP時代の名演 はこちら

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ