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「頭がおかしくなるほど」美術史家たちを悩ませる、カラヴァッジョの真実を探求する

記事:平凡社

カラヴァッジョ作《エマオの晩餐》 1601年 油彩 カンヴァス 141×196.2cm ロンドン ナショナル・ギャラリー (石鍋真澄著、平凡社刊『カラヴァッジョ』より転載)
カラヴァッジョ作《エマオの晩餐》 1601年 油彩 カンヴァス 141×196.2cm ロンドン ナショナル・ギャラリー (石鍋真澄著、平凡社刊『カラヴァッジョ』より転載)

2022年8月29日発売、平凡社『カラヴァッジョ』(石鍋真澄著)
2022年8月29日発売、平凡社『カラヴァッジョ』(石鍋真澄著)

理解するのがむずかしい画家

 今日広く流布しているカラヴァッジョ像は、おそらく実像からはかなりずれてしまっているのではないだろうか。

 カラヴァッジョはいろいろな意味で、理解するのがむずかしい画家だ。

 彼はミケランジェロやラファエッロといった、ルネサンスの巨匠たちから、およそ一世紀後に活躍した画家である。にもかかわらず、著作も日記も、いかなるメモも詩も、手紙さえも残していない。彼の筆跡を伝えるのは、三点の簡単な領収書や誓約書だけである。カラヴァッジョがどのような価値観を持ち、政治や宗教や芸術に対してどのような考えを持っていたのか、確かなことは何もわからない。作品と警察資料などのほかには、それらを知る手がかりがないからである。

 こうした手がかりの欠落は、作品制作に関してもいえる。ルネサンス以降の巨匠たちの中で、カラヴァッジョは素描を一点も残していない稀な画家である。素描は制作の意図や過程を知る手がかりになるから、これもわれわれにとっては大きなマイナスである。

 こうした手がかりのなさに加えて、カラヴァッジョの場合は、近代以前には例のない特殊な事情がある。というのは、通常の天才たちの場合は、その才能を評価し、称賛する者による伝記や記録が残されているが、カラヴァッジョの場合は、まったく様相が異なるからだ。同時代の美術通の医師マンチーニ、ライヴァル画家バリオーネ、そして一七世紀最大の美術評論家ベッローリの三人が残した伝記が、カラヴァッジョの生涯と作品についての主な情報源である。しかし、マンチーニのそれはごく短いものであり、バリオーネとベッローリの伝記は、根底に偏見と悪意が横たわっている。

 描かれた当時、カラヴァッジョの作品は人々に衝撃を与え、高く評価されるとともに、多くの画家に強い影響を与えた。その一方で、彼の作品に対する批判は生前からあり、死後、時がたつにつれてそれが強まっていった。

 バリオーネは、自然(モデル)から描くカラヴァッジョの手法の価値を認めてはいるものの、「一部の人々には、彼はむしろ絵画を破壊したのだと思われている」(伝62)と記している。そして、ヴィンチェンツォ・カルドゥッチという画家に至っては、「この男の出現は、この世の終わりに、人を驚かせる偽の奇跡とともに現れるアンチクリストのように、絵画の終焉と破壊の予兆だ、といわれるのを聞いた」と記している。自然の中から美しいものを選び取ることなく、無節操にそれを写すのは、絵画のよき伝統を破壊するものだというのだ。

 カラヴァッジョに対するこうした批判的な評価は、彼の死後半世紀以上たって書かれた、ベッローリの『美術家列伝』(一六七二年刊)によって完成された。ベッローリによれば、カラヴァッジョは「ある点では絵画に貢献したとしても、やはり大いに有害な人物であり、絵画のあらゆる名誉とよき伝統を混乱に陥れた」というのである。ヨーロッパ美術史の中で、ある画家が「有害な人物」という烙印を押されたのは、初めてのことだったといっていい。このベッローリの『美術家列伝』は「古典主義芸術観の『マグナカルタ』ともいうべき著作」(パノフスキー)といわれるもので、実際、広く流布し、後世に大きな影響を与えたのだった。

 このようにベッローリの著作が広まる裏で、カラヴァッジョとカラヴァッジェスキ(カラヴァッジョの追随者たち)の作品は価値の低いものとして、ほとんど忘れられていった。かくして、ベッローリの伝記だけが残り、それが二〇世紀に至るまで、すべてのカラヴァッジョ像の原型となったのである。

カラヴァッジョ作《ゴリアテの首を持つダヴィデ》 1609-10年 油彩 カンヴァス 125×101cm ローマ ボルゲーゼ美術館 (石鍋真澄著、平凡社刊『カラヴァッジョ』より転載)
カラヴァッジョ作《ゴリアテの首を持つダヴィデ》 1609-10年 油彩 カンヴァス 125×101cm ローマ ボルゲーゼ美術館 (石鍋真澄著、平凡社刊『カラヴァッジョ』より転載)

カラヴァッジョ神話

 厳選された一二人の美術家の伝記を収録したベッローリの『美術家列伝』は、著作としてはひじょうに優れたものであり、カラヴァッジョの作品についての正確な情報を伝えている。もしベッローリの伝記がなかったならば、カラヴァッジョ研究は大きな混乱を抱えることになったに違いない。しかし、作品に関する記事の正確さに比べて、彼が描くカラヴァッジョの全体像はまったく信用できるものではない。ベッローリの美学と美術史観にのっとったカラヴァッジョ像が描かれているからだ。それは、カラヴァッジョとはこういう画家だ、というベッローリの考えに合わせて創作されたイメージだといっていい。そしてその伝記が巧みに書かれているだけに、いっそう危険だというわけである。

 ベッローリのカラヴァッジョ像の要点は、次の三つの点だ。第一に無教養、第二に(天性による)自然主義者、そして第三に様式と本人の外見や気質の一致、の三つである。カラヴァッジョは単純労働をする石工の息子で、粗野で無教養な男だった。そして、その天性によって自然主義者に、つまりモデルを見て忠実に描くことのみに専心する写実の徒となった。さらにその様式は、彼の暗い容貌や粗暴な気質に呼応しているというのだ。

 ベッローリはこのカラヴァッジョ伝を、親しみやすいエピソードを織り交ぜた、巧みなレトリックで書いている。すなわち、カラヴァッジョは石工の現場で漆喰を運んだり膠にかわを作ったりする仕事から絵に関心を抱くようになり、ヴェネツィアで色彩派のジョルジョーネに感銘を受けた。ローマではモデル代が払えないのでカヴァリエル・ダルピーノの工房で働くようになったが、古代作品やラファエッロの作品を学ぶようにいわれても、群衆を指差して、自然だけが師であることを示した。そしてそれを証明するために、通りで見つけたジプシー女を招き寄せて、彼女をモデルに《女占い師》を描いた。また初めて祭壇画を描いたときには、品位もなければ聖人らしくもないといって拒否され、名声を失墜しそうになった。

 こうしたよく知られたエピソードは、いずれもベッローリの創作だといってよい。一例を挙げれば、カラヴァッジョの生まれについて、マンチーニは「由緒ある市民の家系に生まれ」「父親はカラヴァッジョ侯の執事兼建築家だった」、またバリオーネは「富裕な石工(建築家)の親方の子」だと伝えている。こうした情報を知っていたにもかかわらず、ベッローリはただの石工の子だとしか書いていない。ベッローリにとっては、粗野で無教養な画家が、由緒ある家系の出で、侯爵の執事兼建築家の息子であってはならなかったからである(カラヴァッジョの父親はカラヴァッジョ侯の執事兼建築家ではなかったが、「由緒ある家系」の一員であった。カラヴァッジョの家系などについては本書で詳しく述べる)。

 このように、ベッローリが作り上げたカラヴァッジョ像は、今日流にいえばフェイクニュースによって描かれたものだ。それは、「カラヴァッジョ神話」とでも呼ぶべき歪められたイメージなのである。カラヴァッジョは確かに天与の才に恵まれていたが、美の理念なしに自然を写すだけの自然主義者であり、教養もない野卑で粗暴なヴィラン(悪党)画家だったといったイメージである。

 この「カラヴァッジョ神話」はその後のカラヴァッジョ像の基礎となり、カラヴァッジョの人格と作品の見方に影響を及ぼし続けた。こうした負の神話が生き続けたのは、一つには、彼の作品の写実描写と明暗法が、野卑で粗暴な性格と深く関係している、とするベッローリの主張がもっともらしく思われたためであるが、今もなお、われわれはこの「カラヴァッジョ神話」の呪縛から解放されていないのではないだろうか。

カラヴァッジョ作《エジプト逃避途上の休息》 1597年 油彩 カンヴァス(フランドル製麻布) 135.5×166.5cm ローマ ドーリア・パンフィーリ美術館 (石鍋真澄著、平凡社刊『カラヴァッジョ』より転載)
カラヴァッジョ作《エジプト逃避途上の休息》 1597年 油彩 カンヴァス(フランドル製麻布) 135.5×166.5cm ローマ ドーリア・パンフィーリ美術館 (石鍋真澄著、平凡社刊『カラヴァッジョ』より転載)

「カラヴァッジョの真実」への旅

 ところで、ある学者(ゾーム)が、ミケランジェロとカラヴァッジョに関する本や展覧会カタログ、そして論文数の統計を取ってみた。すると、カラヴァッジョ関係の数が一九八〇年代にミケランジェロのそれを逆転して以来、その差は大きくなり続けていることがわかった。その後二一世紀に入って、いろいろなイベントが行われた二〇一〇年の没後四〇〇年記念の年を過ぎても、人々のカラヴァッジョに対する関心は衰える様子がない。疑いなく、今日、カラヴァッジョはもっとも多くの研究や展覧会が捧げられている画家だ。その文献は膨大で、もはやだれにもその全体を把握することはできないし、およそ考えうることはすべて論じられたのではないか、と思わせるほどである。

 振り返ってみると、二〇世紀の初めに、ヴォルフガング・カッラブというチェコ出身の美術史家が、カラヴァッジョについての最初のモノグラフを出版しようとしたときには、カラヴァッジョ作とされた作品が四〇〇点も五〇〇点もあった。しかもその大半の作品が、変色したニスとほこりのために薄汚れたまま放置されていたのである。カラヴァッジョ研究はそのようなカオスの中から船出したのだ。しかし、カッラブの研究から一世紀以上経た現在では、生涯についても、作品に関しても、多くのことがわかるようになっている。

 これから、カラヴァッジョとは、ほんとうはどんな画家だったのか、という問いを胸に、「カラヴァッジョの真実」を探求する旅に出ようと思う。その際に、われわれの前には二つの壁が立ちはだかる。一つは、今述べた「カラヴァッジョ神話」の伝統であり、もう一つは、われわれの常識である。カラヴァッジョは、負のイメージだけが伝えられるという、ほかに例がない特異な状況に置かれた画家だ。その「カラヴァッジョ神話」と、長い時間にその周囲に繁茂した派生物を払拭するのは容易ではない。加えて、一六〇〇年頃のローマという特異な時代と社会に生きたカラヴァッジョを理解するには、われわれの常識はしばしば役に立たないばかりか、障害となる可能性がある。「カラヴァッジョの真実」に迫るには、この二つの壁を乗り越える必要がある。

《中略》

 本書で私がもっとも重きを置くのは、彼の生涯の詳細とパトロンとなった人物や作品制作の背景についてである。時代と社会の中のカラヴァッジョを明らかにすることだといってもいいだろう。それが、カラヴァッジョとはどのような画家だったのかを知ることであり、少なくとも、その基礎となるべきことだと考えるからだ。だから、資料などからわかることと、単なる推測とを、できるだけ明瞭にするように努める。こんなことをわざわざ述べるのは、カラヴァッジョに関しては、事実と推測や仮説とが節操なく語られているのが実情だからである。

 また、生涯に関しては、マイクロヒストリー的に、ささいな事実にも言及するつもりである。作品を見て考えるだけでは、われわれは恣意的な理解に陥りがちだ。そこから救ってくれるのは、結局のところ、そうしたささいな事実であるに違いない、と考えるからである。

 良識ある読者は、「カラヴァッジョの真実」などありえない、というかもしれない。確かに、その通りだ。せいぜいのところ「私が受け止めた」真実でしかありえないだろう。しかしそれでも、それを目指して進むことは誤りではないだろう。カラヴァッジョの作品が感動的であり偉大であることは、議論の余地がない。彼が、イタリアが生んだもっとも偉大な画家の一人であり、イタリア美術史、そしてヨーロッパ美術史を理解するための鍵となる人物であることを疑う者はないだろう。カラヴァッジョがどんな人間で、どんな生涯を送ったにせよ、その評価が揺らぐことはない。だからこそ、いっそう、カラヴァッジョの真実が求められるのである。

(石鍋真澄著『カラヴァッジョ――本当はどんな画家だったのか』序章「カラヴァッジョの真実 二つの壁」より抜粋)

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