ヴィラ゠ロボス、その先へ 『ヴィラ゠ロボス――ブラジルの大地に歌わせるために』[上]
記事:春秋社
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『ヴィラ゠ロボス――ブラジルの大地に歌わせるために』を書いてみてわかったことは数限りない。独学の天才というイメージがつきまとう彼は、たしかにアカデミックな教育とは距離があったかもしれないが、ハイドンやストラヴィンスキーなど、先行する作曲家たちの作品を相当に勉強し、自身が作曲家として生きていくための戦略を周到に練っていた。
しかも彼は、数多くの支援者を味方につけることに成功していた。ルービンシュタインをはじめとする演奏家たち、近代芸術週間で活躍したような先鋭的な詩人や作家たち、「ヴェローゾ・ゲーハ・サークル」での出会い、そして数多くのパトロンたち……。それは彼が社交に長けていたからというより、常に大きなビジョンを描き続ける人であったからだろう。彼はひとりでにヴィラ゠ロボスになったわけではない。彼に惹かれ、彼に夢を託した多くの人々がいたおかげで、ヴィラ゠ロボスはヴィラ゠ロボスになった。
そしてヴィラ゠ロボスは、自分が作曲家・指揮者として活躍することはもちろん、もっと大きな夢を託されたことにきわめて自覚的であった。ゆえに彼は、ただのエゴイズムに走らず、国を動かし、国と共に動き、一国の音楽教育文化芸術の未来に貢献しようとする広い視野と凄まじい行動力をもってその生涯を駆け抜けた。論理や影響関係の痕跡をあえて消し去り、個人ではなくもっと大きなものに寄せて、つまり「ブラジルの大地に歌わせるために」彼はその生涯を賭けていった。
その意味において、ヴィラ゠ロボスの生涯は、アーティストには何ができるのか、というもっとも鮮やかな先行事例といえるかもしれない。そして、文化芸術の担い手に対する、良き「託し方」と良き「託され方」の先行事例でもあるように思う。
とにかくヴィラ゠ロボスは後世に膨大な作品と強烈な影響を残した。たとえばリオデジャネイロ市立劇場の横にはヴィラ゠ロボスの胸像が、サンパウロにはヴィラ゠ロボス公園と名付けられた公園が、ブラジリアの国立劇場にはヴィラ゠ロボスホールと名付けられたホールがあり、かつての500クルゼイロ紙幣にはヴィラ゠ロボスの肖像が採用されていた。ブラジルの場合、クラシックとポピュラーの音楽が融合することにその魅力の一端がある(たとえばアントニオ・カルロス・ジョビン)ので、クラシック/ポピュラーのような二分法で語ることは適切でないとはいえ、すくなくとも、ブラジルのクラシック音楽作曲家でヴィラ゠ロボスの影響を受けなかったものはほぼ皆無と言って良いだろう。
なぜならば、ヴィラ゠ロボスが立ち向かった問いは、その後のブラジルのクラシック音楽作曲家も必然的に向き合わざるを得ないものであったからである。民族的であることと普遍的であることは両立できるのか。西洋の模倣ではない「ブラジルのクラシック音楽」というものはいったい何であるのか。大規模な作品で要求される「形式」をいかにして獲得するのか。そもそも、どこで西洋音楽の作曲技法を学び、どこで自作を上演するのか。(当時のブラジルのオーケストラは技術的に、彼らの作品を演奏することが困難な場合もあり、ブラジルの多くの作曲家たちはフランスやアメリカのオーケストラに自作の演奏機会を求めた) こうした問いは、非西欧文化圏として、日本の同時代の作曲家たちが抱えた問いとも対照されうるものである。
また、ブラジルのクラシック音楽家としての第一世代、たとえばアウベルト・ネポムセノ(1864-1920)が、ヴィラ゠ロボスを引き立てたように、第二世代にあたるヴィラ゠ロボスは、カマルゴ・グァルニエリ(1907-1993)やクラウジオ・サントロ(1919-1989)はじめその後の世代の作曲家たちにブラジルの外から出て学んだり演奏する機会を与えたり、ロレンソ・フェルナンデス(1897-1948)など後進の作曲家たちの作品を海外で指揮してその存在を知らしめたりした。世界のホールや劇場でブラジルのクラシック音楽が演奏会プログラムに取り上げられるようになったのはヴィラ゠ロボスに拠るところが大きく、彼は、それ以降のブラジルの作曲家たちが国際的に羽ばたいていくための道を開拓したのである。
そして、こうした「第三世代」の作曲家たちは、ヴィラ゠ロボスの強烈な存在感のもとで、各々ヴィラ゠ロボスの乗り越えを試みた。たとえばセーザル・ゲーハ=ペイシ(1914-1993)は、ヴィラ゠ロボスがブラジル北東部で民族音楽を収集したという「伝説」に疑義を呈し、よりしっかりとした民族音楽の研究が必要だという観点から、あえてブラジル国外に留学せず、ブラジル北東部のペルナンブーコ州レシフェに移り住んで「レシフェのマラカトゥ」という民族音楽・舞踏の研究書や、交響的組曲第1番「パウリスターナ」交響的組曲第2番「ペルナンブーコ」などを作曲した。特にペイシの「Mourão」はブラジルの弦楽アンサンブルにとって無くてはならない曲として愛されていて、ブラジルで出会った弦楽奏者たちはみんな、ブラジルの弦楽作品の代表曲として本曲を真っ先に挙げるほどであった。
ヴィラ゠ロボスについて書くことを決めた際にも、日本ではいまだ、ブラジルのクラシック音楽作品がある意味での「変わり種」として扱われている状況に一石を投じたいという思いがあったのだが、ヴィラ゠ロボスの評伝を書くだけで終わってしまっては不十分だろう。ヴィラ゠ロボスから出発して、あるいはヴィラ゠ロボスと対比しながら、後世の作曲家たちを論じていきたい。なぜならば彼らの多くは、ヴィラ゠ロボス同様にフランス(パリ)で学び、ブラジルでもフランスでもないもう一極(たとえばアメリカやソ連)を自らの活動場所として見出していたという点で、ヴィラ゠ロボスの生涯との比較が極めて有意なのである。
これから私は、第三世代の作曲家たちを中心に、ブラジルのクラシック音楽の簡単な見取り図となるような書物を著したいと思っている。実は第三世代の作曲家たちの作品には、ヴィラ゠ロボスと同様に、いや、もしかしたらヴィラ゠ロボス以上に、演奏会にラインナップしやすい曲が沢山である。『ブラジル・クラシック音楽史』というと壮大に過ぎるかもしれないが、これまでオール・ブラジル・プログラムを指揮したり、ナクソスの「Brasil em Concerto」シリーズに解説を執筆する過程のリサーチで明らかになったことをベースに、ブラジルの豊穣なクラシック音楽をより広めていきたいものである。次の記事では「パリ」に留学した三人のブラジルの作曲家たちを比較することで、その一端を紹介してみようと思う。