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音楽家は書く 意味超える情感、にじむ文章 本社編集委員・吉田純子

学生時代の岩城宏之(左)と山本直純。2人の「ガキ大将」は小澤征爾らとともに、日本のクラシック界の底上げと大衆化に貢献する存在となってゆく

 音楽と物書き、どちらが本職か。そう問われるほどよく文章を書いたのが指揮者の岩城宏之だ。2月に復刻された『森のうた』は、途方もない才能と愛嬌(あいきょう)を併せ持つ盟友、山本直純との日々をつづる畢生(ひっせい)の著である。

 念願の東京芸大に入ったものの、指揮者になりたくて仕方がない作曲科のナオズミ(山本直純)と打楽器専攻のぼく(岩城)は「もりそば二杯進呈」をダシに芸大生を集めまくり、本当に学生オーケストラを結成してしまう。最高学府の権威も何のその。上野動物園の猿山の前で「振りてえよォ」と2人で悶(もだ)え、カラヤンのリハーサルに一緒に決死の思いで潜り込み、涙もかれる失恋を慰め合う。かの「のだめカンタービレ」のはるか上を行くエピソードがこれでもかと続く。ひたむきな無鉄砲さがいじらしく、いとおしい。

一つに束ねる力

 クライマックスは、その学生オケを率い、ショスタコービチの「森の歌」をナオズミの指揮で上演するラストシーンだ。スターリンもコルホーズもどうでもいい。高揚感で突き抜ける大合唱付きの管弦楽曲は、それだけでプロアマ問わず、当時の若い音楽家たちを虜(とりこ)にしていた。

 奏楽堂という恭しい名のオンボロ木造ホール前は、長蛇の列に。「さあ、行け!」。奮い立つナオズミの背中をたたくと、たっぷり汗を吸った上着がピチャッと音をたてる。その筆は一瞬にして、本番直前の薄暗い舞台袖へと読み手を連れてゆく。

 ここから10ページ、圧巻のフィナーレがはじける。何十もの声部を同時に聴き、ひとつの響きへと束ねてゆく指揮者の特殊能力が、文章でもさえ渡る。至上のライバルであり親友だったナオズミとの4年間が、楽曲や演奏の描写とともに、見事な対位法で編みあげられてゆく。

 この2人の「弟分」的な世代である池辺晋一郎著『大作曲家の音符たち』は、元文学青年らしい洒脱(しゃだつ)さで、古今東西の作曲家の「語り口」を解き明かす。「意識しなくても口をついて出る」というおなじみのダジャレは、言葉を「意味」と「無意味=音」の融合とするならば、「無意味」の領域に限りなく近い世界での遊戯なのだろう。

 かように音楽家とは、言葉からこぼれ落ちる感情を、音という別の器ですくいあげながら生きている人々のことである。ちょっとした形容詞の選び方だったり、間の取り方だったり。そうしたところに、音楽のたたずまいがふっとにじむ。そのグラデーションを意識して読むと、音楽家の文章は殊更に面白い。

のびのび無軌道

 日本で初めて本格的なオペラを書き、オーケストラをつくり、クラシック音楽界の文明開化を大いに牽引(けんいん)した山田耕筰の『自伝 若き日の狂詩曲』(中公文庫・1210円)の文章に宿る色香やセンチメンタリズムには、小節線の軛(くびき)を逃れ、憧れの心が無軌道にのびのびと広がってゆく「この道」や「からたちの花」の旋律が重なる。この人が書く日本初の星占い本『生(うま)れ月の神秘』(実業之日本社・品切れ)には、天性の底知れぬ好奇心と諧謔(かいぎゃく)精神こそが、パイオニアとしてのエネルギーの源だったのだと納得させられる。

 中村紘子著『ピアニストという蛮族がいる』は、よくある身内褒めとは無縁の潔い分析本だ。「理不尽なまでの時間の浪費」と「滑稽とも思える集中」の世界に生きる人生の、限りなき豊かさを伝えてゆく率直な筆致には、芸術の枠を超えた社交を好んだ人ならではの華がある。凜(りん)としておもねらない。

 反戦の思いを濃密に塗り込めた合唱曲の数々を書いた三善晃著『遠方より無へ』(白水社・品切れ)のすごみも唯一無二だ。激しくも静謐(せいひつ)。シニカルで純朴。何ひとつ矛盾なく同居させる音楽の極意がここにある。=朝日新聞2022年4月9日掲載