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演奏不安のありか 音楽家も神経学をマスターしよう

記事:春秋社

新堂浩子『演奏不安・ジストニアよ、さようなら 音楽家のための神経学』(春秋社)書影
新堂浩子『演奏不安・ジストニアよ、さようなら 音楽家のための神経学』(春秋社)書影

 昔、アマチュア・オーケストラでヴァイオリンを弾いていた。いっこうにうまくならないので自虐的に「私のパートはサード・ヴァイオリンです」とか言って、仲間に見放されないようにしていた。みんなで弾けば恐くないという心境で。ところがある日、小さな会で一人でひくことになり、たった3分の小品を猛練習して、意欲満々で本番に臨んだ。ところが……。

 音程もヴィブラートもボーイングも思うようにならず、赤面のいたりでその場を何とか切り抜けた。うまく弾こうという自意識に苛まれたのか、なぜか急速に楽しめなくなってしまった。以来、楽器は押し入れに。趣味でやる分にはなにもそこまで考えなくても、とも言われたが。

 今思えば、そんな経験をしたところで、にわかに演奏が楽しめなくなった事情を知ろうともせずに、心理的な問題の所在に気づかぬまま放置しただけのことだった。そうした誤解? を氷解させてくれたのが本書である。担当した私自身、本書の編集作業と並行して、自らを省みる機会が訪れた。 

ポリヴェーガル理論の音楽への応用

 とにかく、自分をコントロールできないときには、往々にしてメンタル面や演奏局所に目を向けがちだが、意識的な対策にばかり目を向けていてもいっこうにラチがあかない。本書では、昨今大きく脚光を浴びているポリヴェーガル理論を応用して考え出されたアプローチを含んでいる。脳や自律神経なるものの基本的な知識を取り入れつつ、神経系と心身の関わりを説く本書は、専門的なキーワードも登場してくるけれども、ポリヴェーガル理論の勘所を押さえれば、演奏行為が神経システムにいかに緊密に関係しているかが理解できるようになる。

 折しも春秋社では、ポリヴェーガル理論に関する訳書や著作が花丘ちぐさ先生のリードによって意欲的に紹介・出版されてきている。このポリヴェーガル理論を音楽の領域に結びつけ、新しい視点を提供してくれるのが本書のユニークなところだ。

 もとより、ポリヴェーガル理論はヘルスケアの新しい方法として生まれた。一口にいえば、自律神経系の状態を整えておくことがいろいろな意味で心身の平安を保てるというものである。

 ポリヴェーガル理論では、こう見られている。「安全であること」が顔と頭の筋肉にある社会交流システムの中のみならず、「腹側迷走神経」経路にある内臓も含めた身体全体にとって重要な契機となる。人体のあらゆる側面で、安全であればこそ防衛反応が下方修正され、穏やかになっていく。安全であると感じると、身体は健康、成長、回復をサポートするために自らを再調整することができる。つまり、自律神経機能が最適化されることになる。この状態で、自律神経の防衛的な性質が抑制され、身体は自由な動きを獲得でき、心理面にも穏やかな影響を与える。

 この点では、音楽家にしても、自律神経の状態が、演奏の成功の鍵を握っているということが言えるかも知れない。本書では、あがり、ステージ恐怖症、フォーカルジストニア、発声障害などの心身トラブルの原因とその解決法が示される。音楽家の動き、呼吸、発声など心身の不調において身体面と精神面の両面から働きかけ、神経可塑的な変化を促す試みが展開されているのである。

 著者の新堂浩子さんは、長年、音楽家向けフィジカルセラピストとして活動してこられた。ステージ恐怖症、演奏不安に陥っている人とのセッションをおこなってきた実績がある。心と身体と感情には相互関係があるとして、これら心理的な問題が自律神経系の問題であり、その柔軟性の回復と欠如したレジリエンスの回復を志向してこられた。相談に来るアーティストたちからも多くを学びつつ、目先のトラブルを超えて、真に音楽を楽しむにはどうすればよいか、を目指してきたという。こうした実践の経験とポリヴェーガル理論の新たな知見と具体的な対処法を結びつけ、ここに音楽家のための神経学入門ともいうべきものとなりえた。

「まずは、ほっこりしてください……」セッションに入る前の新堂さん。
「まずは、ほっこりしてください……」セッションに入る前の新堂さん。

 かくて、ポリヴェーガル理論の視点を援用すると、過去の音楽家の症例というのもまたちがった様相を呈してくるのは興味深い。本書では、音楽家の主だった症例としてステージ恐怖症のバーブラ・ストライサンドや摂食障害で夭折したカレン・カーペンターの苦悩のエピソードが取り上げられるが、なにより注目すべきはホロヴィッツのケースである。

――ホロヴィッツはいわゆる背側迷走神経系症状のオンパレードでした。怒りやすく、消化器系障害に苦しみ、何度となく鬱病に陥りました。……にもかかわらず復帰できたのは、あくまで私の推測ですが、80歳をすぎて安らげるようになりトラウマが寛解したのではないかと思います。安らぎを得たホロヴィッツがおだやかな《トロイメライ》を弾いたのではないでしょうか。(本書154~155頁)

「あがり」を防ぐ呼吸法レッスン

 ポリヴェーガル理論を援用した本書では、音楽家がいかに安心を得られるか、本書の第4章「音楽家のためのリラクゼーション――心と身体のレッスン」では、音楽家の回復を願って、リラックス法の様々なメニューが提案されている。

 たとえば、ステージでの「あがり」をやわらげるために、どうすればリラックスが得られるか。その前提としてはまず、「あがりを受け入れてしまうこと」、うまく演じようとはせず、音楽本来の目的に身を委ねることが指摘されている。

――大切なことは、観客はあなたを批評するためではなく、生の音楽を楽しみたくて来ています。防衛反応を大きくしないためには、あがりを認め、変化を肯定しましょう。覚醒し情熱的になるために、可動化は必要です。ちょっとした興奮を受け入れ、楽しみましょう。(本書90頁)
――あがりを抑えるためには、口を閉じて鼻で小さく息をします。呼吸性洞性不整脈で、息を吐くときは心拍は遅くなりますね。口から息を吐いてしまうと、鼻から吐くよりも抵抗が少なく、早く吐いてしまいます。鼻で小さく呼吸することで、呼吸はゆっくりになって心臓は落ち着きます。(本書96頁)

 「口から息を吐くと自律神経が整う」――スポーツインストラクターから選手にそうアドバイスする場面がある。この考えは、発生学的にも根拠がないだろう。なぜなら、呼吸するところは鼻であって、あくまで口は摂食と発声するところであるわけだから。

 どうすれば落ち着ける呼吸が可能か。本書では、呼吸のメカニズムとその効用を丁寧に説明して、有用な呼吸レッスンが紹介されているほか、さまざまな心身のリラックスのヒントが満載。

 ……いくつか試してみて、納得。私もこれなら平常心でヴァイオリンを弾くことが出来るかもしれない。

 で、結論。かつての私の苦い体験は、自律神経系の不調にあったことが理解されてくる。ポリヴェーガル理論を適用すれば、腹側迷走神経系が抑制されて交感神経系が優位に立ったあげく、無意識のコントロール不全に陥っていた、と。わがヴァイオリンのリハビリを迎える日も近い!……。

(文・春秋社編集部)

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