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パリの衝撃  『ヴィラ゠ロボス――ブラジルの大地に歌わせるために』[下]

記事:春秋社

多くのアーティストや哲学者が集ったカフェ・ド・フロールとドゥ・マゴ(サンジェルマン大通りから筆者撮影)
多くのアーティストや哲学者が集ったカフェ・ド・フロールとドゥ・マゴ(サンジェルマン大通りから筆者撮影)

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 ヴィラ゠ロボス(1887–1959)、カマルゴ・グァルニエリ(1907–1993)、クラウジオ・サントロ(1919–1989)の三人はブラジルのクラシック音楽史の中で決して欠かすことのできない作曲家である。日本での知名度はヴィラ゠ロボスが飛び抜けているものの、ほかの二人も実はブラジル本国では相当に有名な作曲家である。グァルニエリは「南北アメリカで最も偉大な音楽家」の称号を得るほどであったし、サントロは死後に首都ブラジリアの国立劇場が「クラウジオ・サントロ国立劇場」と名付けられるほどの存在であった。

サントロの交響曲第11番自筆譜。クラウジオ・サントロのご子息にしてチェンバロ奏者であるアレサンドロ・サントロ氏の自宅を筆者が訪れた際に見せて頂いたもの。
サントロの交響曲第11番自筆譜。クラウジオ・サントロのご子息にしてチェンバロ奏者であるアレサンドロ・サントロ氏の自宅を筆者が訪れた際に見せて頂いたもの。

 3人はいずれも両親や親族から楽器を学んだ点が共通しており、ヴィラ゠ロボスは父からチェロを、グァルニエリは母からピアノを、サントロは叔父からヴァイオリンを教わった。そして彼らはみな素晴らしいピアノ曲を残した。聞きやすいものが多いので、この三人の作品に触れるうえでは、ぜひピアノ曲から聞いて頂くのが良いかと思う。ヴィラ゠ロボスの場合は、ルービンシュタインが彼のピアノ曲集《赤ちゃんの家族》第一集を世界で演奏したことが、グァルニエリの場合はアルフレッド・コルトーが彼の《ポンテイオス》を知ったことが、この作曲家たちがブラジルの外に出ていくひとつのきっかけとなった。

 この3人はみなパリに渡った。当地の最先端の芸術に触れつつ、そこで受けたレッスンがその後の人生を左右したり、強烈に批判されたり、トップ・アーティストとの交流が後の活躍につながったりと、それぞれの生涯を振り返ったとき、パリに渡ったということが決定的に重要であった。

 そもそも、ブラジルはフランスと深い繋がりを持っていた。1822年のブラジル独立宣言の前後から、フランスの文化使節団が訪れ、音楽をはじめとするフランスの文化がやや貴族的でハイセンスなものとして入ってきていたという。20世紀初頭のブラジルのクラシック音楽は、まずもってフランス音楽が中心であり、一番演奏されていたのはサン=サーンス、ついでフォーレ、ドビュッシーなどが好まれていた(イタリア・オペラの影響も強く、特にプッチーニが愛好されていた)。

 しかも19世紀末から20世紀初頭においては、パリは「光の都」であって文化芸術の中心地でもあった。学ぶためのみならず、自らのパフォーマンスを国際的に通用するものとして認識させるためには、パリで成功するということが極めて重要であった。ゆえに、ブラジルからも多くの芸術家たちが当時の芸術の首都たるパリに渡ったのである。

 3人のパリ滞在時期を比べてみよう。サントロは1947年から48年。第二次世界大戦のあとに渡航している。グァルニエリは1938年から39年。戦争勃発直前の渡航。ヴィラ゠ロボスは、1923–24、1926–29、1929–1930の3回にわたってパリに長期滞在している(晩年にもパリに滞在しているが、これは大成した後の滞在なのでここでは扱わない)。彼らはちょうど10年ずつぐらいパリ滞在の時期がずれており、それぞれに、パリ渡航前後から、鍵となる人物がいた。

パリ滞在期を軸とした三人の簡単な年表。筆者作成。
パリ滞在期を軸とした三人の簡単な年表。筆者作成。

 たとえば、冒頭に掲げた二人のピアニスト、ルービンシュタインとコルトーである。拙著で詳述したように、ルービンシュタインの存在がなければ、ヴィラ゠ロボスはパリに遊学することは難しかっただろう。あるいはコルトーの推薦がなければ、グァルニエリもまた、パリ留学は叶わなかったかもしれない。

 そして指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーである。ヴィラ゠ロボスはパリに渡ってから、サン・ミシェルにあった自分のアパルトマンにしょっちゅう人を招いて交流していたのだが、クーセヴィツキーもそこに出入りする一人であった(拙著p.100「パリのヴィラ゠ロボス」を参照)。それ以来ふたりの交流は長く続き、クーセヴィツキーはヴィラ゠ロボスの渡米時も尽力した。

 クーセヴィツキーは、グァルニエリの作品にも強い興味を持ったようで、のちに彼をアメリカへ招き、その作品を紹介するようにもなる。これによってグァルニエリの作品を知り、ピアニストとして積極的に彼の作品を演奏していたのが若き日のレナード・バーンスタインであった。当時のブラジルのオーケストラは技術的な困難を抱えており、高度で複雑な作品を演奏するには様々な障壁があった。ゆえにグァルニエリとヴィラ゠ロボスもまた、自身の管弦楽作品の多くをアメリカのオーケストラと初演するようになるのである(なお、サンパウロでベートーヴェンの交響曲全曲が演奏されたのは1940年代になってからだという)。

 ついで指揮者のシャルル・ミュンシュである。ミュンシュはパリ音楽院管弦楽団の指揮者を1946年まで務めていて、それ以降クーセヴィツキーの後を継いでボストン交響楽団の首席指揮者に就任した。クーセヴィツキー、ミュンシュともに、パリとアメリカをつないだトップクラスの指揮者であり、ヴィラ゠ロボスとも交流が深かった。サントロのパリ留学の際に彼をフランス政府奨学金に推薦したのはミュンシュとヴィラ゠ロボスであり、推薦にあたって、二人が何らかのやりとりをしていたことは想像に難くない。

 そして、この時代にパリに渡ったアーティストならば必ず関わりを持ったと言われるほどに偉大なる教育者、ナディア・ブーランジェである。ブーランジェはアメリカ系の音楽家を中心に多くの音楽家を育てた教師で、たとえばバレンボイム、バーンスタイン、日本人では大澤壽人などを教えた。特に有名なのはピアソラで、音楽活動の方向性に悩むピアソラに「あなたにはタンゴがある」というふうに助言して彼を目覚めさせたというエピソードは良く知られている。彼女は当時の第一線のアーティストたちと親密な関係を築き、才能ある若き作曲家を紹介して、若手作曲家たちの作品の演奏機会を作っていた。

 ヴィラ゠ロボスはブーランジェとそれほど深い関係ではなかったようだが、知り合いではあったらしい。グァルニエリはパリ留学の際にブーランジェのレッスンを受けたようだが、戦争の勃発もあり直接多くを学ぶことはできなかったようだ。しかしブーランジェに出会ったことが、ヴィラ゠ロボスとも関係のあった作曲家アーロン・コープランドとの友情に繋がり、その後グァルニエリがアメリカへ渡る際にもコープランドが大いにサポートすることになる。

 サントロもまた、パリ渡航後にブーランジェのクラスに入っていた。サントロ曰く、ブーランジェとの日々はこのようであったという。



「週に一回、ブーランジェのアドバイスを受けにいく。彼女は私の作品にアドバイスをくれると共に、たくさんの議論をしてくれる」

「ブーランジェのクラスは素晴らしかった 。そこでは音楽について語り合うだけでなく、絵画や彫刻や文学や演劇など、音楽と対比される他のあらゆる芸術について議論した。 私たちはしばしばパリの美術館を訪れたり、(ソルボンヌ大学で)映画を専門とする教授の映画のクラスに出席したりもした。」



一方でブーランジェはサントロについてこう語っている。



「サントロはすでに作曲家であり芸術家であって、わたしは彼と議論しているにすぎません」



また、ストラヴィンスキーに宛てて「この若きブラジル人は、極めて才能豊かで、真の音楽家であり、すばらしい作り手です」と、サントロを激賞する手紙を書き残すほどであった。

 パリに渡る前のサントロは無調の作品を数多く残していた。なぜならば彼はブラジルで、ハンス・ヨアヒム・ケルロイターという無調や十二音技法を得意とする作曲家に師事していたからである。ケルロイターは、指揮者ヘルマン・シェルヒェンと懇意で、シェルヒェンが刊行していた現代音楽雑誌ムジカ・ヴィヴァの名前をとって、ブラジルで同名の現代音楽グループを作っていた。この集まりは当時のブラジルの音楽家たちの間で賛否が割れていたが(グァルニエリの強烈な批判が有名である)、無視できないぐらい強い影響力を持っており、サントロもそれらと無縁ではなかった。

 しかし、ブーランジェと共に過ごしたことと、その後のプラハ会議での国際的な潮流が、サントロを十二音技法から離脱させることになった。彼はこのように語っている。「私は十二音技法を最初に用いたブラジル人でありましたが、また同時に、最初にその技法を放棄したブラジル人になりましょう。ヨーロッパの今日における主流は、芸術における新しいヒューマニズムです。私は人々を満足させる作品を作っていきたいし、理解される言語で話したいのです」

三人のパリ滞在期の比較
三人のパリ滞在期の比較

 上の表は、三人のパリ滞在を簡単にまとめたものである。字数の限られた紙面で紹介できたのはそれらのほんの一部分とはいえ、パリ滞在中の人々との出会いが、この三人の作曲家の生涯を大きく動かしたことは間違いない。

 ブラジルのクラシック音楽作曲家というとどこか異質な印象を受けるかもしれないが、実は彼らは、我々がよく知るヨーロッパの作曲家や指揮者、演奏家たちと深い関わりを持ち、国際的に活躍した作曲家たちなのである。ブラジル音楽の生き字引のような偉大なるマエストロ、ホベルト・ドゥアルテ氏ともブラジルでこのことを熱く議論したのだが、彼らはマイナーな存在でもなければ、その作品が西洋の作曲家たちに比べて劣っているわけでもない。たとえば日本においては、いまだ十分に紹介されてこなかっただけである。

マエストロ・ホベルト・ドゥアルテとリオデジャネイロにて。
マエストロ・ホベルト・ドゥアルテとリオデジャネイロにて。

 最後に、彼ら三人をめぐる主要な交友関係を纏めた画像を一枚掲載しておきたい。ここに挙げた人物たちがそれぞれどのような関係にあったのか。それを理解することが、ブラジルのクラシック音楽をより外に開かれた形で把握するための一助となろう。この人物たちは、さらにその先の世代のブラジルの作曲家、たとえばアウメイダ・プラド(1943-2010。ブラジルではグァルニエリに師事し、パリではブーランジェとメシアンに師事した)などにも多大な影響を与えていくことになるのである。

 やはり、こうしたことを書かねばならない。ヴィラ゠ロボスについて上梓したのちも、落ち着くどころか、いや、記したことによって、私のうちに筆への想いが一層燃え始めている。

三人の作曲家をめぐる重要人物たち。
三人の作曲家をめぐる重要人物たち。

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