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『夜船閑話』と『延命十句観音経霊験記』

記事:春秋社

白幽子巌居之蹟(はくゆうしがんきょのあと)
白幽子巌居之蹟(はくゆうしがんきょのあと)

『夜船閑話』解説

 『夜船閑話』は青年時代の白隠が、禅病に苦しんだ末、遂に京都白河の仙人白幽を訪れ、内観法や輭酥の法を教えられ、それを実践して治癒するに至った物語である。修行に熱中した二十歳半ばの白隠は、一応悟りは開いたものの頭がのぼせ耳鳴りがし、おどおどして幻覚を生じ、足は冷え両眼常に涙を帯びるに至った。肺結核説もあるが、おそらく胸膜炎を伴ったひどい神経症、ノイローゼであったらしい。大悟した筈の白隠が何故ノイローゼになったのかと不審を抱く人もいるが、年齢などを考え合わせれば、あまり問題にすることもないであろう。その時、自ら漢方医の説や天台の止観等に基づいて、内観法や輭酥の法を実践して治病の効を奏したのであるが、興味深く広く世間に訴えるために、当時かなり有名であった白幽から親しく授けられたものの如く物語風にして書いたのである。白隠は創作家としての才能にも恵まれていた。

 書名は、夜船の乗り合い衆のむだ話という意であるが、「夜船」は、或いは「白川夜船」の語に掛けたものかも知れない。人に京の白川の事を問われた、知ったかぶりの男が、白川を川の事と思い、夜船で通ったから知らぬと答えたという話がある。もしその含みがあるとすれば、白川の仙人白幽子には会った事はないが、会ったことにして書いた咄という意味が、『夜船閑話』という書名にあるわけであろう。

『延命十句観音経霊験記』解題

 白隠は宝暦九年(一七五九)七十五歳の時『八重葎』を出した。二巻本である。(白隠については拙註本『遠羅天釜』「白隠禅師小伝」参照。)巻之一は「高塚四娘孝記」であり、巻之二が本書に収録した「延命十句経霊験記」であるが、二者には何の連関も無い。便宜的に内容の全く違うものを合冊にしたのである。

 遠州高塚の小野田五郎兵衛久繁の孫娘、おさき十四歳、おやす十二歳、おかの八歳、おその六歳の四人の娘が、父母の冥福を祈って、『法華経』八巻を、宝暦四年の秋より同七年の春にかけて三年を費やし、仮名文字で分担筆写した。白隠宝暦九年遠州高塚の地蔵寺で『虚堂和尚語録』を講じた時、前記の久繁が来って相見し、その『法華経』を見せていわれを語った。白隠は四人の心がけを嘆賞して、久繁の望みに応じてその由来を記し、且つ『法華経』の功徳を説いたが、久繁は資を投じてそれを刊行した。その時それを巻の一とし、ついでに巻の二として「十句経霊験記」を入れてもらって世に出したということらしい。「延命」の二字はこの時白隠がつけ加えたと言われている。

 「此の八重葎巻の二なるものは、白隠の筆蹟を其儘木版にしたもので、江戸の書肆植村藤三郎の版行である。此の書の内容は、頗る長篇で篇中には色々の逸話や故事が列記されて居て、到底一夕の思いつきによる文章とは思われない。是は相当の歳月に亘つて立案されたものを、此の時初めて清書されたものと察せられる」と陸川堆雲居士も言われるが(『白隠和尚詳伝』)、『霊験記』の構成は相当練り上げられ推敲されたものと思われる。

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