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観心と本尊とは何か――『現代日本語訳 日蓮の観心本尊抄』

記事:春秋社

日蓮大聖人画像『波木井の御影(水鏡の御影)』身延山久遠寺所蔵
日蓮大聖人画像『波木井の御影(水鏡の御影)』身延山久遠寺所蔵

【一】観心とは何か

(十二)質問いたします。一念三千が天台大師智顗のお書きになった『摩訶止観』の第五巻において、初めてあきらかにされたことは、これまでの説明で理解できました。

 では、一念三千の観心の意義や様相はどのようなものか、お教えください。

 お答えいたします。一念三千の観心とは、仏道修行に励む者が、おのおのみずからの心をよく観察して、その心にもともとそなわっている地獄界から仏界までの十の法界にそなわっている物質性や精神性、因と果などの内容や役割を正しく認識することで、悟りに近づくための瞑想に励むことにほかなりません。これを観心というのです。

 たとえば、他人の感覚と意識をになっているの六つの器官(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根=六根)は、認識の対象にできますが、自分自身の六つの感覚器官は認識の対象にできません。つまり、わたしたちは自分自身の感覚と意識をになっている六つの器官について、じつは何も知らないのです。したがって、わたしたちが自分自身の感覚と意識をになっている六つの器官について、正しく認識するためには、曇りのない鏡に向かい合う必要があります。

 それと同じような、さまざまな経典が、あちこちで、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天から構成される六道について、ならびに声聞・縁覚・菩薩・仏から構成される四聖について、説いてはいますが、『法華経』と天台大師智顗が説かれた『摩訶止観』などの曇りのない鏡に向かい合わなければ、わたしたちの一瞬一瞬の心に、十界(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)がすべてそなわり、一つの法界(領域)に、それぞれ十の法界がそなわっているので、百法界になり、一つの法界に、それぞれ三十種類の世間がそなわっているので、百界には三千種の世間がそなわっていること、すなわちわたしたちの一瞬一瞬の心に三千種の世間がそなわっていることを理解できません。(p.20–21)

【四】本尊のお姿

 わたしたちが信仰し、礼拝の対象とすべき本尊は、本門をお説きになった釈迦牟尼仏です。

 そもそも、本尊という言葉には、根本尊崇と本来尊重と本有尊形という三つの意味が秘められています。根本尊崇とは、世界の根源として尊崇されるべきものの姿という意味です。本来尊重とは、わたしたち自身の生命の本来あるべき姿として尊重されるべきものの姿という意味です。本有尊形とは、久遠の過去世から有ったのに今まで隠れていた尊い存在が現れた姿という意味です。これら三つがすべてそなわっていなければ、真の本尊とはいえません。

 大地からあたかも千界の微塵のごとく涌出した大菩薩たちに、本門の肝心である「南無妙法蓮華経」の五文字をひろめるように託されたときの本尊のお姿は、以下のとおりです。

 久遠実成の教主である釈迦牟尼仏によって、永遠不滅の理想郷が実現した娑婆世界の虚空上に、多宝塔が浮かんでいます。多宝塔のなかには、中央に「南無妙法蓮華経」という五文字があり、その左に釈迦牟尼仏が、右に多宝如来が、坐しておられます。

 お二人の仏の左右には、脇侍として、地涌の菩薩を代表する上行菩薩と無辺行菩薩と浄行菩薩と安立行菩薩がならんでおられます。

 その下には、文殊菩薩と弥勒菩薩と薬王菩薩と普賢菩薩が、従者として、末座に坐しておられます。この四人の菩薩たちは、迹家といって、釈迦牟尼仏が久遠実成の本仏であることを秘したまま、生きとし生けるものを導くために、娑婆世界に出現されたときに、教化された者たちの代表です。

 そのほか、四人の菩薩たち以外に、釈迦牟尼仏が迹家として、生きとし生けるものを導くために、娑婆世界に出現されたときに、教化された菩薩たち、ならびに娑婆世界以外の世界から来訪した菩薩たちは、あたかも数限りない人々が大地に坐して、高貴な方々を仰ぎ見るように、多宝塔を仰ぎ見ています。

 さらに、全宇宙から、釈迦牟尼仏の説法を讃嘆するために集まってきた釈迦牟尼仏の分身たちは、大地のうえに坐しておられます。なぜならば、これらの分身は、久遠実成の本仏が生きとし生けるものを教化するために、一時的に姿をあらわした仏、つまり迹仏だからです。

 このような本尊は、釈迦牟尼仏が悟りを開かれてから入滅されるまでの五十余年間には説かれていませんでした。最後の八年間に、『法華経』の「従地涌出品」から「属累品」に至る八品をお説きになったときにしか説かれていません。

 正しい教えと正しい教えにもとづいて修行する者とその結果としての悟りが三つともあった正法時代、および正しい教えと正しい教えにもとづいて修行する者がいてももはや悟りを開けない像法時代の千年間を合わせた二千年の間、小乗仏教の釈迦牟尼仏は大迦葉尊者と阿難尊者を両脇侍として従えていました。『法華経』以外の大乗経典、ならびに『涅槃経』や『法華経』の迹門では、釈迦牟尼仏は文殊菩薩や普賢菩薩を両脇侍として従えていました。

 これらの仏菩薩は彫像や画像にされてきました。しかし、『法華経』の「如来寿量品」において、本門の教主として、初めてあきらかにされた久遠実成の仏が、眼に見えるかたちで表現されたことはありませんでした。末法時代に突入した今こそ、まさに初めて、この仏像を出現させなければならないのではないでしょうか。(p.94–96)

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