「身心脱落・脱落身心」から「脱落即現成」の世界へ。道元の見いだした悟道の理路
記事:春秋社
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道元は宋に渡り、天童山の如浄禅師のもとで修行をしていました。ある日、如浄は雲水の一人が坐禅中に居眠りしているのを見て「参禅は須く身心脱落なるべし。只管に打睡して什麼を為すに堪えんや」と大喝して警策を加えました。その言葉を聞いて道元は、豁然大悟したと伝えられています。
この悟り体験は、やがて、坐禅をすると「身心脱落」を実現することができるということから、坐禅こそ身心脱落であるという立場に変化していきます。それでは脱落とは何でしょうか。脱落の体験はどのようなものなのでしょうか。
道元は、『正法眼蔵』「道得」の巻で「脱落せんとするとき、皮肉骨髄おなじく脱落を弁肯す、国土山河ともに脱落を弁肯するなり。このとき、脱落を究竟の宝所として、いたらんと擬しゆくところに、この擬到はすなはち現出にてあるゆえに、正当脱落のとき、またざるに現成する道得あり」と述べています。
つまり、脱落とは、主客分裂の枠組みを脱落すること、それはそのまま主客未分の一真実、西田幾多郎の言う純粋経験が現成することなのです。脱落した世界は、この世とどこか別のところにあるわけではなく、自分も含めた現前の事象の世界として現れ出てくるべき世界なのです。
著者はこの「道得」の巻の句を受けて、次のように語っています。
道得とは、言語を用いて言うことが原意であるが、ここでは広く表現の意として用いられているとみてよい。後に見るように、山水がそこにあることも、道得になるのである。一生不離叢林も道得となるのである。私は、この「道得」の巻の「正当脱落のとき、またざるに現成する道得あり」の説から、道元の思想の核心に、「脱落即現成」という理路があることを強調したいと思う。(本書、202頁)
脱落と世界の現成は、『正法眼蔵』「説心説性」の巻でも語られています。道元は、「説心説性」を通常の読みとは異なり「説なる心、説なる性」と読み込み、「おほよそ仏仏祖祖のあらゆる功徳は、ことごとくこれ説心説性なり。平常の説心説性あり、牆壁瓦礫の説心説性あり。いはゆる、心生種種法生の道理現成し、心滅種種法滅の道理現成する、しかしながら心の説なる時節なり、性の説なる時節なり」と説きます。
これを著者は心・性=脱落、説=現成として、次のように解説しています。
種種法の生滅は、心または性(ともに脱落)の説(現成)であるという命題を導き出している。日常の所作(平常・主体的)も、かわら片でさえ(牆壁瓦礫・客体的)も、おしなべて「性の説」だというのである。……
そこでは、脱落即現成ということが、単に有と無の不二を意味するにとどまらず、脱落底の表現(説)として内在世界は現成するという意味を持つことになる。脱落とは主観と客観の各々を超越したものであって、そこから主観面にせよ客観面にせよ現成するのであれば、その脱落即現成とは、脱落的主体による表現的有の成立と言い換えることができよう。(本書、209頁)
さらに、「父母未生前」にしてただちに即今・此処の自己にほかならないことを、道元は『正法眼蔵』「山水経」の巻冒頭で「而今の山水は、古物の道現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成ぜり。空劫已前の消息なるがゆえに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆえに、現成の透脱なり」と語っています。ここから著者は次のような結論を導き出しています。
山も水も自己であるということは、実は主客未分ないし主客不二の一真実がそこに現成していることを物語っている。身心脱落において自覚される自己は、主客の構図をも脱落するがゆえに、自己即世界、世界即自己なのである。……このように、法位に住して究尽の功徳を成じている現成底、実は自己にして世界そのものが、古仏の道現成として、つまり脱落即現成のあり方にあると言ってよいであろう。(本書、219頁)
要するに、世界の根本的なありさまは、本性が自らを否定して諸法に現成している世界であって、それは私たちが脱落していようといまいと厳然として変わらないわけです。このことが道元にとっての禅の核心であり、かつ私たちに伝えたかったことだったのではないでしょうか。