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日本語と遍在的天皇制――『日本語に生まれること、フランス語を生きること』をめぐって(2)

記事:春秋社

1946年(昭和21年)10月29日、帝国議会において修正を加えた帝国憲法改正案を可決した枢密院会議の写真。
1946年(昭和21年)10月29日、帝国議会において修正を加えた帝国憲法改正案を可決した枢密院会議の写真。

 日本国憲法が危殆に瀕している。自民党は「日本国憲法改正草案」なるものを2012年に発表した。この草案が描く日本は「人権宣言」に発する近代国家の構想とはまったく相容れない「天皇を戴く国家」である。自民党とその亜流が目指す「憲法」に内在する至高の価値は、自然法に由来する基本的人権(自然権)ではなく、皇祖神に発する天皇制だからである。したがって、自民党とその亜流が戦前の国体を理想化する「日本会議」や「神道政治連盟」に賛同する議員を驚くほど多く抱えていることには何の不思議もない。驚くべきはむしろ、十五年戦争の筆舌に尽くしがたい惨禍と引き換えに手にしたはずの日本国憲法を有しながらも、それを敵視し、改憲を結党以来の党是とする政党が、敗戦後ほとんど切れ目なくこの国の政権の座についてきたことである。ということは、日本国憲法公布から70年以上の時間が経っているというのに、基本的人権の思想と感覚はいささかも深まっていないということだろう。いや、逆に退化しているというべきかもしれない。戦争放棄を謳う最高法規を愚弄するがごとき「防衛産業強化法案」が大政翼賛体制を彷彿とさせる、衆議院の95%を占める自民・公明・立憲・維新・国民五党の賛成によって成立したのはつい先日のことであった。

 かつて加藤周一は、「戦争と知識人」(1959)で、「「七月十四日」のフランスは、日本の大学における「フランス文学」の研究によっては、日本の知識人に肉体化されなかった」と書いた。今日、知識人に肉体化されたかどうかはともかく(それも大いに怪しい)、国民一人ひとりに肉体化されていないことだけは確かである。戦後、何百万人もの日本人が大学で「近代憲法」の何たるかを学んだはずなのだが、まるで憲法の授業など幻であったかのように、「天皇を戴く国家」の信奉者たちが幅を利かせ、国民が彼らを大量に国会に送り出していることが何よりの証拠である。

 『第三身分とは何か』のアベ・シエイエスがナシオン(国民)を「同輩者たちの集団」と定義したことから明らかなように、人権宣言が構想する社会は同輩者的という形容を許すものであった。市民の市民による自己統治的秩序と言い換えてもよい。対して、日本の「社会」はどのような秩序といえるだろうか。この国は、中世に、契約によって水平的に結合する在地領主たちの一揆という立憲主義的法秩序を経験したけれども、それは後の近世幕藩体制によって徹底的に解体されてしまった。徳川権力は、それに代わって、上位者が下位者に命令し、下位者が上位者に隷従する垂直構造(「将軍→大名→家臣→領民」)を本質とする法度はっと体制を作り上げた。それは8世紀に中国から継受した律令の日本的実質化として理解すべきものであった。そしてこのような非同輩者的命令的隷従的秩序が、実は、それを否定しているはずの、日本国憲法を最高法規とする今日の政治体制においても生き残り、社会の根幹を特徴づけているのである。価値が上位者に集中していることを示す「えらい」という日本語独特の言葉が象徴的に示しているように、十五年戦争の悲惨と大いに関係のある「権力の偏重」(福澤諭吉)・「抑圧移譲」(丸山眞男)はこの国の本質的特徴であることを止めていない。政界からヤクザまで、あらゆる団体を貫通する親分・子分的論理のことを想起されたい。

 それでは、その生き残りを可能にしているのは何なのか。わたしは日本語が大きく作用しているのではないかと考えるのである、言語は社会関係の再生産に大いにかかわる。日本語の歴史の専門家によれば、現代人の言葉の直接の起源は江戸時代にあるという。ということは、非同輩者的命令的隷従的秩序を完成させた時代の言語を使って、われわれは今を生きているということである。

 人権宣言における同輩者的世界は自由で対等な発話主体によって担われる。そこでは言語は世界を語るための、あらゆる発話主体に共通の手段である。相対する二人の将棋指しが盤上で同じ駒を同じ規則に従って動かすように、である。ところが、日本語には非同輩者的=命令的・隷従的現実が嵌入しているという著しい特徴がある。このことをわたしは森有正から学んだ。発話主体は同輩者的関係を経由して三人称的客観世界に赴くどころか、敬卑関係を特徴とする二人称的関係に入り、そこにとどまる。対話者(二人称)がどういう人物なのかに応じて言葉の様相が大きく変化するのが日本語である。例えば、西欧語に比して人称詞(話者と対話者を指す言葉)が異常に多いという事実がそれを証明している。森有正は日本語の二人称的世界を「日本人の経験」それ自体として対象化し、それを遍在的天皇制と呼んだ。確かに、非同輩者的=命令的・隷従的秩序の頂点にいるのは天皇である。

 ということは、この国に本当の意味での市民社会、つまり同輩の市民たちが担う社会という意味での市民社会が成立するためには、日本語がそれに相応しい変容を遂げる必要があるということである。今日明日の話ではありえない。

(続きは次回)

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