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腐敗と闘う:中世イタリアのシエナと「御成敗式目」の日本――『日本語に生まれること、フランス語を生きること』をめぐって(3)

記事:春秋社

シエナの市庁舎とカンポ広場
シエナの市庁舎とカンポ広場

 岸田翔太郎の忘年会騒ぎで政権の腐敗ここに極まれりと思っていたら、その後も薗浦健太郎、松川るい、木原誠二、秋本真利といった固有名が数珠つなぎに続いた。腐った料理を無理矢理食べさせられているようで、実に不愉快である。政権がここまで堕ちても、何と30%を超える人が内閣を支持しているという。内閣改造でもすれば、直ちに元どおりになるだろうし、そもそも、自民党の支持率は他を圧して安定的に高いのだから、この集団の領袖たちの正直な気持ちは痛くも痒くもないというところなのではないか。政党とはいっても名ばかりで、実は親分・子分関係の束からなる徒党集団に過ぎない。「政治家」には思想とか信条などというものはなく、親分の考えが自分のそれになる。「政治」はおのずと密室化するから、汚職が絶えず、しかも批判的公衆パブリックとして結集する市民が存在しないから、止むことがない。八十年近くも前になるが、丸山眞男がすでにこういうことを言っていた。

 わたしは今年の五月に、アンブロジオ・ロレンゼッティの絵画「よき統治と邪悪な統治」(1338–1339)をぜひともこの目で見ておきたいと思い、イタリアのシエナを訪れた。ロレンゼッティの作品を擁するパラッツォ・プブリコ(ロレンゼッティが生きた十四世紀に九人の行政官がつくる政府が置かれていた市庁舎)の「平和の部屋」は修復工事中で中に入れなかったが、無駄な旅ではなかった。都市のたたずまい、とりわけカンポ広場とパラッツォ・プブリコの威容に触れて、中世の都市国家(都市的規模の共和国)、近代を先取りしたかのごとき自己統治的秩序としてのコミューンに思いを馳せることができたからである。共和国時代のシエナは選挙で選ばれる九人の行政官の合議制に根ざしていた。最重要理念は公共善(bien commun)であり、寡頭制を防ぐためにさまざまな工夫がなされていた。行政官の任期が極端に短いこと(二ヶ月)、再選には長い期間を置かなければならなかったこと、任期中の行政官は私情・私欲の誘惑を絶つべくパラッツォ・プブリコに常住しなければならなかったこと、などである。この国の政権の中枢にあって、吐き気をもよおすほどの腐臭を放っている政治専門家たちに聞かせてやりたい話だ。しかし、中世イタリアのシエナを特徴づけていた公共的市民精神と同質のものが、実は日本の中世にも存在したということを、その人たちは知っているだろうか。

 わたしの念頭にあるのは、「事実的な力関係の強弱、あるいは身分の高下に左右されることなく、「ただ道理のおすところ」「事の理非」にしたがって裁定するための、客観的基準を示すもの」とされた「御成敗式目」である。日本中世は「天」という超越的普遍者に発する「道理」の時代だった。そしてその「道理」とは、「事実上の権力、伝統的権威、あるいは自然的な(感情的・血縁的いずれの意味でも)親疎関係によって裁判なり政道なりの決定が(…)左右されないこと」(『丸山眞男講義録』第五冊)を意味した。中世はまた「道理」に依拠する領主たちが契約によって水平的に結合する「一揆」の時代でもあった。一揆的結合とは、いわば、小さな共和国なのである。注意すべきことが二つある。まず、「道理」と「一揆」の中世が天皇制を克服した時代(石母田正)だったということ、そして、そのような「道理」と「一揆」の中世を完膚なきまでに破砕したのが徳川幕藩体制だったいうこと、この二つである。われわれは一度失われた「道理」と「一揆」の水脈をもう一度掘り当てなければならない。

 公共善を至高の価値とし、各人が私欲のみを追うところでは正義は専制の奴隷になると考える中世のシエナにしても、「天」に発する「道理」を根本にすえる御成敗式目の中世日本にしても、政治を腐敗から守る強固な意思がみなぎっている。腐敗と不正義を排除するために、シエナの行政官や参事官たちにはそのための資質能力が問われたらしい。誰でもよいというわけではなかったのである。そういうことを知るに及んで、わたしはこの国の最高権力(立法権力)=国会を構成する議員たちにも公共世界と正義を守るために必要な資質と能力が要求されて当然なのではないかと考えるようになった。現状では、選挙で当選することがすべてである。当選すれば、その適性能力とはまったく無関係に、政治、すなわち公共善の追求というもっとも重要で栄えある仕事に携わる。オリンピックで金メダルを取ったスポーツ選手や超人気の歌歌いの集票力を買って自民党がそういう人たちを候補者にして当選させるということがよくあるが、それは根本的におかしいのではないか。教師になるためにはそのための試験を受け、合格しなければならない。医者にしても弁護士にしても、そのための能力を持っているかが問われるのである。議員には当然「政治」についての能力を問う必要があるのではないか。近代国家の起源や歴史、近代憲法の精神についての試験を課したら、いったい何人の国会議員が合格するであろうか。

 腐り果てた「民主主義」を前にしてこういう問いが浮上してこないことが不思議でならない。

(了)

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