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何事もおこらないのはなぜか――『日本語に生まれること、フランス語を生きること』をめぐって(1)

記事:春秋社

水林章著『日本語に生まれること、フランス語を生きること――来たるべき市民の社会とその言語をめぐって』(春秋社)
水林章著『日本語に生まれること、フランス語を生きること――来たるべき市民の社会とその言語をめぐって』(春秋社)

 『日本語に生まれること、フランス語を生きること』を書いていたわたしを終始突き動かしていたのは、この国のあまりにも醜悪な政治を前にしての絶望を含んだ怒りである。

 2011年3月のフクシマと2012年12月の第二次安倍内閣成立を分水嶺に、自民党政治とその担い手たちの極端な劣化と腐敗(約言すれば、政治の私物化、立憲主義の危機)が深刻化し、やり場のない腹立たしい思いに苦しめられていたわたしは、どうしてこれほど酷いのかと問うと同時に、これほど酷いにもかかわらずどうして国民の側から実効的な抵抗が起こらないのかという問いと真剣に向き合うことになった。

 この二つの問いとの対決の背後には、大学一年生のころからフランス語を勉強しはじめ、その後フランス文学研究の道に入り、結局は35年の長きにわたってフランス語とフランス文学を講じたという経験がひかえている。わたしが特に力を入れて勉強したのは、18世紀啓蒙の哲学者たち、就中ジャン゠ジャック・ルソーの文学と思想であり、それとの関連でおのずと視野に入ってきたフランス革命の政治的・文化的達成という問題群であった。

 もうひとつ、注記しておきたいことがある。わたしは50年以上もフランス語を勉強している古稀を過ぎた一元教員にすぎないけれども、わたしの仕事はフランス語教師・フランス文学研究者としてのそれにとどまらない。というのは、2011年以降今日まで、わたしはおよそ文章なるものをフランス語で書くことに専心してきたからである。これまでに上梓した作品は8冊におよぶ。フクシマ以降、わたしは、ゆえあって(理由は著書で詳しく説明した)精神的エネルギーのすべてをフランス語で作品を書き、出版し、そのことがもたらすあらゆる社会関係をフランス語で生きることに費やしてきた。このような経緯がなかったならば、『日本語に生まれること、フランス語を生きること』が書かれることはなかっただろう。かくして、わたしは、必然的にフランス語を/で生きるという「経験」(森有正)をとおして日本社会を観察することになったのである。

 全21章からなる著書で展開したことをここで要約するのは至難である。しかし、あえてその核心部分だけをつかみ出せば、次のようになろうか。

 政治の劣化と腐敗を前にして、国民の側から何事も起こらないということはどういうことなのか。この何事も起こらないという現象は、人々が行政に対する不満や怒りをデモ行進等でたやすく表現するフランスを若い頃からずっと見続けてきたわたしにとっては、この国のまことに際だった特徴である。公共の諸問題、すなわちすべての人々にかかわる諸問題を、われわれは自分自身の問題として感じることができないようなのである。公共ないし公共社会(国家)とは人々がともにつくりともに担っている社会のはずであるが、日本人にはこのともにつくり、ともに担っているという感覚が欠如しているように見える。なぜなのか。わたしは、その根本原因を、この国には公共社会を自然人としての諸個人が社会契約を媒介にして作り上げるものととらえる伝統が存在しない点に求めるにいたった。

 近代国家の構想の根底には、社会や国家が成立する以前の自然状態と自然法の思想がある。自然状態においては、自由な自然人たちが対等な資格で生きている。しかし、自然人の自由は別の自然人の自由と衝突せざるをえないから、自然状態は必然的に戦争状態に転変する。よって「人類は生き方を変えなければ滅亡する」(ルソー)。ここから社会契約の必然性が導き出される。自然人たちは社会契約によって自然状態を抜け出し、各人の自然的自由をより高次の市民的自由として確保する。これが1789年の「人権宣言」の核心にある思想である。「人権宣言」の衣鉢を継ぐ日本国憲法についても同じことが言える。公共社会は何のために存在するのか。諸個人は社会契約をとおして自然人から市民という名の主権者に変容するわけだが、何のためにそのようなプロセスを経験すると考えるのか。自然状態に根拠を持つ市民的諸権利(基本的人権)を保全するためである。人々は自然的諸権利を基本的人権として守るために、ただそのためだけに公共社会(国家、すなわち共和国)を創る、そのように考えるのである。

 これが近代政治社会思想の根本構想であるが、われわれはこれを血肉化できない。なぜなのか。わたしは、この国における基本的人権の思想の開花と定着をその根底において阻んでいるのは、社会の契約的編成という考え方と真っ向から対立する、皇祖神とその子孫(天皇)による支配を正当とする「国体像」(天皇制)なのではないかと考えるのである。丸山眞男はかの「超国家主義の論理と心理」(1946)の執筆をとおして、「天皇制が日本人の自由な人格形成(…)にとって致命的な障害をなしている」という結論に到達したという。実はわたしも齢72にして図らずもそういう認識にたどり着いたのである。

(続きは次回)

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