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とりわけ苦悩したことは?…平安時代の女性が直面した宮廷の人間関係――『紫式部と清少納言が語る平安女子のくらし』

記事:春秋社

優雅な宮廷生活ならではの人知れぬ苦悩が…
優雅な宮廷生活ならではの人知れぬ苦悩が…

憧れの宮廷生活で知った現実

 平安女子の美人の条件として、まっすぐで長い黒髪が求められた。『枕草子』に「羨ましくみえるもの……髪が大変長く、毛筋が整っていて、額髪(ひたいがみ)の切り揃えたところが綺麗にみえる人」と記されるように、長く、豊かな髪は平安女子の憧れの的であった。当の清少納言は定子に仕えはじめたころから、薄くなった髪を気にするようになり、目立ちにくい夜ばかり参上していたという。しかし、灯りで照らされた内裏の室内は夜間も明るかったため、昼よりも薄毛がはっきりとみえて、悩まされていたようだ。

 平安女子の平均寿命は30歳とも、40歳ともいわれていた。紫式部が30歳を少し過ぎた頃、重陽節会(ちょうようのせちえ)の日に、彰子(しょうし)の母である源倫子(りんし)から菊の着せ綿(菊の花を真綿で覆ったもの)が贈られてきた。節会前日から準備された菊の着せ綿は、たっぷりと露を含み、それで顔や身体を拭うと若返ると信じられていた。9歳も年長の倫子に「この綿で、うんとすっきり老化を拭き取りなさい」といわれた紫式部の心中は複雑なものがあったにちがいないが、老いを認めなければならない年齢に達していたのであった。

 紫式部も清少納言も宮廷生活に順応できたが、『源氏物語』を愛読していた菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)は宮廷生活に憧れて祐子(ゆうし)内親王(後朱雀天皇の皇女)に仕えたが、わずか1年ほどで宮仕えを辞している。「宮仕えは辛いものだ」という父の反対を押し切って出仕したが、案の定、気詰まりなものであったようだ。孝標女は家族以外と生活したことがなく、後宮では、局(つぼね)の外で立ち聞きや、覗き見をしたりする人の気配に悩まされたり、周囲に気兼ねして不眠に陥ったのである。憧れと現実のギャップは相当なものであったのだろう。

女房仲間を観察する紫式部

 彰子のもとには、和泉式部、赤染衛門(あかぞめえもん)、伊勢大輔(いせのたいふ)などの歌人も女房として仕えていた。紫式部は、彼女たちにさまざまな感情を抱きながら接していたようである。和泉式部の和歌の素晴らしさは認めながらも、彼女が赤染衛門のことを「匡衡衛門(まさひらえもん)」と、あだ名で呼んでいることや、恋愛遍歴を重ね、大スキャンダルを引き起こすような素行の悪さには批判的で、尊敬できる歌人とはいい難いと考えていた。それにひきかえ、赤染衛門こそ本格的な歌人と呼ぶのにふさわしいと賞賛した。

 起床とともに長い黒髪を梳(くしけず)り、化粧を施すことは、平安女子のマナーであった。紫式部は日頃の振る舞いには口やかましかったが、美しく、長い髪を蓄えた女子を羨望の目でみていたようである。身長より三寸(約10cm)も長かったということから、一目置くのも当然だろう。さらに、入念に施した化粧が、涙などではげ落ちた時の同輩の女房のあまりの面(おも)変わりには、驚きを隠せなかったという記述には笑いを誘われる。

 宮仕えの時期も異なり、面識がなかったといわれる清少納言については、漢才があることを前面に押し出した振る舞いを不快と感じたようだ。それは、定子が「少納言よ。香炉峰(こうろほう)の雪は、どうであろうか」と清少納言に問いかけたときのこと。清少納言は咄嗟に『白氏文集(はくしもんじゅう)』の一節のように御簾を高く巻き上げたことが『枕草子』に記されている。定子はわが意を得たように喜んだが、このエピソードは、紫式部や同輩の女房たちからは漢才をひけらかしていると不興を買った。

愛憎渦巻く後宮の人間関係

 天皇の后同士の対立といえば、『源氏物語』のなかの桐壺更衣に対する弘徽殿女御(こきでんのにょうご)の嫉妬が有名であるが、反目は現実でも起こっていた。村上天皇の中宮安子(あんし)は、天皇の寵愛を一身に受けていた宣耀殿女御(せんようでんのにょうご)を疎ましく思っていた。清涼殿で隣り合わせの控室に居合わせた時、安子が壁の隙間から覗いてみると宣耀殿女御は噂通り愛らしい容貌であった。感情の高ぶりを抑えきれなくなった安子は、女房に命じて土器の破片を投げつけたという。このような度が過ぎた行いに駆り立てるほど、後宮では根深い嫉妬が渦まいていたのであろう。

 紫式部の父である藤原為時(ためとき)は漢詩人として有名で、息子の惟規(のぶのり)には幼い頃から漢籍を教授していたが、女子には漢籍の素養は不要とされていたため、紫式部に対しては行わなかった。しかし、惟規が覚えるのに苦労していると、皮肉なことに側で聞いている紫式部のほうがスラスラと暗誦できるようになってしまったそうだ。父は、紫式部が男子でないことをひどく嘆いたという。このようにして身につけた漢籍は、のちに『源氏物語』の随所で発揮されることになるのであった。

 宮廷生活において、漢籍の才があることは、表だって語るものではなかった。紫式部は1008年の夏ごろから彰子に『白氏文集』のなかの「新楽府(しんがふ)」を進講するようになったが、他の女房たちが側に仕えていない合間を縫って行うほどの気の使いようであった。それは、男性ですら漢文の素養を鼻にかけた者は敬遠されていたため、ましてや女性の身にあっては女房たちからいやがらせを受ける危険性を孕んでいたのである。

 清少納言は『枕草子』では漢才を前面に押し出し、隠し立てはしなかったが、紫式部はひた隠しにしていた。しかし、一条天皇が述べた「『源氏物語』の作者は『日本書紀』を熟読している」という話を鵜呑みにした左衛門の内侍は、紫式部に「日本紀の御局」とあだ名をつけ、漢籍に通じていると噂を立たばかりか、紫式部を目の敵にして悪口をいいふらしたのであった。紫式部は、噂が広まり、皆から毛嫌いされるのではないかと心配でたまらなかったという。宮仕えは楽しいことばかりではないことは想像に難くないが、女房同士の人間関係は相当、複雑なものであったのだろう。

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