紫式部が伝える平安時代の宮廷生活と女房たちの実態
記事:平凡社
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来年のNHKの大河ドラマ「ひかる君へ」は、紫式部が主人公となることが予告され、すでに主要な配役も発表されています。平安時代の貴族女性が大河ドラマの主人公になるのは初めてです。どんなドラマが展開するのか、どのように豪華絢爛な宮廷が再現されるのか、大変楽しみです。
しかし、紫式部は藤原為時という受領であり学者でもあった人の娘で、一条天皇の后となった中宮彰子の許に出仕し、『源氏物語』を執筆した宮仕え女房であったことは確かですが、どのような人生を送ったのか、わからないことが多いのです。
みなさんは、紫式部が本名ではないことをご存知でしょうか。この時代は本名で呼ぶことを避けますので、別に女房名という宮中での通り名で呼ばれていました。中流貴族の娘であった紫式部は、本名は記録に残らず、女房名だけが残ったのです。しかも、その名前も正式には『栄花物語』などの記載から藤式部であったと言われています。紫式部はあだ名であり、後代、このあだ名のほうが定着していったようです。なぜ紫式部と呼ばれるようになったのか、諸説ありますが、そこには『源氏物語』の登場人物紫の上が関わっていたと考えるのが自然でしょう。紫式部は『源氏物語』の作者として、あまりに有名ですが、その通称もまた『源氏物語』と深く関わっていたのです(『源氏物語』以外の平安時代の物語は作者不詳のものばかりですので、紫式部は数少ない例外と言えましょう)。
また、紫式部はいつ生まれたか、いつ亡くなったかもわかりません。このように謎が多いのは中流貴族の娘として生を受けた人には当たり前のことで、清少納言や和泉式部、赤染衛門などの女房たちも、女房名はわかっても、本名はわかりませんし生没年も不詳です。
その一方で、紫式部は『源氏物語』以外にも2つの作品を残しています。主人である中宮彰子の皇子出産、その関連する行事や、宮仕えの中で抱いた思い、他の女房への批評などを記した『紫式部日記』と、生涯にわたって詠んだ歌を集めた『紫式部集』です。このように書き残したものを通して、直接書き手の心に触れられるのが古典を読む醍醐味でしょう。『紫式部日記』や『紫式部集』からは、千年前の世界を生きていた紫式部のナマの声を確かに聴きとることができます。謎が多い紫式部ですが、その生きた証のように、貴重なことばを残し、それが現代まで伝えられているのです。
本書は、『紫式部日記』や『紫式部集』から、紫式部の人物像や他者との交流を描き出し、宮廷における女房の役割や宮廷生活、「物語を書くこと」の意味を明らかにしようとしました。
紫式部を考える上で重要なのは、彼女が宮仕え女房であったことではないでしょうか。紫式部は言うまでもなく天才でしたが、現代の私たちが社会生活の中で苦労を重ねるように、紫式部も孤高の天才ではなく、女房としての集団生活の中でさまざまな軋轢を経験していました。そして女房である以上、その才はあくまでも主人を輝かせるためのものだったのです。
本書は、女房の役割、存在理由に筆を割き、後宮の中で物語を執筆する意義を考えました。そもそも物語の執筆は主人への奉仕でした。物語の書き手の意識は、現代の作家とはおのずから異なっています。この時代、書き手とパトロン、さらに読者との距離が大変近いのです。そのような距離感が『紫式部日記』の『源氏物語』をめぐる記述によくあらわれています。本書では、あえて物語作家ではなく、物語作者ということばで記して、現代の作家と差別化しました。
本書の構成に沿って、本書の内容をもう少し紹介しておきましょう。
第一章では、紫式部の生涯を『紫式部集』の和歌や詞書を中心に紹介しました。友人のお悩み相談に乗る、娘時代の紫式部は優れたカウンセラーのようです。夫・宣孝との歌のやりとりも、勝気な紫式部が印象的です。年上の宣孝は若い紫式部に翻弄されて困り顔ばかりに描かれますが、ちゃめっけのある宣孝は現代の読者にも魅力的に映るのではないでしょうか。
第二章では、当時の女房にどのようなことが期待されていたのかを紹介しました。平安時代は宮廷サロン文学が花開いた時代であり、その担い手は女房たちでした。女房たちの文学活動がなぜ盛んであったのか、その理由とともに、女房たちに対して意外に否定的な眼が注がれていたことに言及しました。また、女房から派生した、主人筋の愛を受け入れる召人という存在を『和泉式部日記』の記述から紙面を割いて紹介しました。この作品は北の方が帥宮邸から出て行くという、ある意味で衝撃的な結末を迎えるのですが、帥宮と和泉式部との共感性、愛情に敗北したように書かれるところに、日陰者のような召人側の主張、したたかさが読み取れるのではないでしょうか。
第三章では、中宮彰子のお産を中心とした、詳細な宮廷記録である『紫式部日記』の世界に分け入り、紫式部の宮廷社会に注ぐ眼と思いを析出しました。主家の慶事を物語の語り方を援用しつつ記す工夫は、まさにプロの仕事です。主家の人々、藤原道長をはじめ、中宮彰子、頼通、倫子や宰相の君、小少将の君など同僚の女房たちの姿が王朝絵巻さながらに描かれていきます。五十日の祝宴に列した公卿たちの酔い乱れた姿は、当時の貴族社会の権力が女性たちに左右されていたことも透かし見せているようにも読め、紫式部の観察眼の凄みを感じます。その一方で、紫式部は主家の栄華の世界に没入できない思いを告白しています。その引き裂かれた思いに、現代にも繫がる宮仕えの辛さを見いだすことができそうです。有名な和泉式部、赤染衛門、清少納言を批評した箇所にも触れ、特に紫式部が清少納言を意識しないではいられない立場にあったことや意外な共通性が清少納言への強い否定に繫がったことを考察しました。
第四章では『紫式部日記』に記された『源氏物語』の記述を中心に、同時代の人々がこの物語をどのように受け止めていたのかを考察しました。この記述が2008年の『源氏物語』千年紀の起点となったように、宮中で『源氏物語』は今で言うベストセラーになっていました。中宮の皇子出産という慶事の副産物のように、主家の物語となって広まる『源氏物語』を『紫式部日記』は記していたのです。また物語の世界の延長のように記される藤原道長との贈答歌から、道長の召人であったという伝承の是非についても言及しました。否定する研究者も多いですが、紫式部自身がこの贈答歌を書き残したとする限りは、召人の可能性は十分考えられて良いと思います。
以上、概略をご紹介しました。本書が紫式部や紫式部が生きた時代の人々に思いを馳せ、『源氏物語』や他の平安文学作品に新たな関心を持っていただく契機になりましたら幸いです。
第1章 紫式部を知る――生涯と人間関係
紫式部の謎/『紫式部集』について/娘時代の紫式部/越前へ、そして結婚/宣孝という人/宣孝の死/『源氏物語』執筆から宮仕えへ/宮仕え/紫式部の晩年
第2章 女房とは何か――平安時代貴族女性の社会進出
女房と文学/女房達の現実/女房の光と影愛を受け入れる女房/『和泉式部日記』の世界/記録する女房
第3章 『紫式部日記』の世界
秋の土御門殿/道長の訪れ/頼通との語らい/お産までの日々/倫子――菊の綿/中宮彰子、出産へ/皇子誕生/産養/道長からの相談/行幸/五十日の祝宴/乗車をめぐるトラブル/三才女批評
第4章 宮中で広まる『源氏物語』
『紫式部日記』中の『源氏物語』/道長との関係/女性達の物語/受け継がれる謎